お気持ち表明に対するお気持ち表明

以前のnoteで色々書いたからなのか、それともまたXの調子がおかしいからなのかは分からないが、色んな界隈の色んなお気持ち表明を目にする機会が増えた。

某初界隈で初めてお気持ち表明というものを知ったから目に入るようになった可能性もあるが、全く縁もゆかりも無い界隈のお気持ち表明が流れてくると、色んな意味で「何故?」という疑問が浮かんでくる。

大体のお気持ち表明に「普通は…」とか、「配慮が…」とか、相手に常識を促す言葉が見受けられ、その後に非常に鋭い言葉が並び、自分が嫌いなものを滅多刺しにしてやろうという気概を感じさせる文章が滝のような勢いで連なっていく。

……ただ、ご自身の一般常識を振りかざす前に一度考えてみてほしい。

そもそも「普通」というのは、とある集合体のうち、半分以上が同意するものを指すのだと思う。
「普通」という言葉を聞くと、少なくとも私は「その集合体の60%〜70%がこの意見に同意している」と考える。
「良いねの数が多いからこの意見は正しい」と言われると、そもそもその母数が分からないので、これは結局一個人の尺度で測った「普通」の範囲から出ない、と個人的には思う。
それを「普通は…」と言って叩き出すのはいささか主語がデカいのでは?と思ってしまう。

良いねの数が増えると気が大きくなるのも分かる。
賛同する仲間の数が目に見えて増えていくと、肯定された気持ちになるのかもしれない。
だが、現実世界にふと帰ってみて、周りを見渡してみると、果たして今呟いた「お気持ち表明」にどれくらいの人が「普通」だと認識するのだろうか?

「多様性」と「コンプライアンス」という複雑怪奇な両者が手を取り合って我々を取り囲んでいるこの社会で、自分の「普通」が本当に「普通」だと胸を張って言えるその度胸は大したものだと思う。
けれども、その度胸を他者を蔑むために使うのは間違っている、と私は思う。

「私は…」と主語が自分なら構わないのだが、自分のXのおすすめに流れてきた「お気持ち表明」というものは、何故か大体そこの界隈の「一般常識」であったり、「マナー」みたいなものが該当する。

本当にそれは「一般常識」であり、「マナー」なのだろうか?
いつからその「マナー」は設立され、それが「一般常識」になったのか?

その主張を裏付けるソースがあれば別だが、これは「お気持ち表明」。
ただの一個人の人間の尺度によって生み出された個人単位の考えや作法に過ぎない。
それを随分大きな主語を使って、圧をかけて本当の「一般常識」や「マナー」にしようとしている感じがして、側から見た個人の意見としては、非常に厚かましいという印象が残る。

「配慮」も然りである。
ご自身の好き嫌いを何故会ったこともない赤の他人が把握していると思っているのだろうか?
「自衛してても見えちゃって……」
そう言って、自分の嫌いなものを公共の場で蔑むのは許されることなのだろうか?
自衛してても見えてしまうのは、現状、Xのシステムに問題があるのでご愁傷様としか言いようがないが、それを楽しんでいる人に対する「配慮」は無いのだろうか?
ファミレスに行って自分の嫌いなものを食べている人をたまたま見かけて「うわー。あれ頼んで食べるとか意味分かんない」と言っている人と同じ神経を感じるのは私だけだろうか?
10代とかならまだ分かるのだが、これをやってるのが成人済みの大人となると大丈夫か?と心配にはなる。

あくまで個人的な見解で申し訳ないが、こういうことを言う人に限って、他者を気遣う余裕がなく、自身の内面の変化にだけ目を向け、自身の意見に賛同してくれる仲間を探すことに勤しみ、強い言葉を使って注目を集めようとしているように感じる。
また、こういう人に限って、自分が攻撃され返すと非常にヒステリックになる。
自身の発言は聖言であると思っているのだろうか。
自身の正義が他者にとっては不義にあたるかもしれないことは考慮に入れていないのだろうか?
良くも悪くも「自分ファースト」を履き違えている気がする。
批判される覚悟がないなら強い言葉を使って発言するのは避けた方が良い、と私は思う。

青い鳥が囀っていた時代なら、こういったものは流され、見向きもされないで済んでいたのだろう。
だが、黒ずんだ変数になってからは、こういった人間関係に亀裂を生む発言が目立つようになった。
このアプリのアイコン自身にも亀裂が入っているから、わざわざそうしているのか分からないが、見ていて気分の良いものでは無いと思う。

別に「自分の意見を言うな」という話ではない。
自分の意見ならば自分の意見だと言え」と言う話である。
「私はこれが嫌い!」なら「そうか!」で済む話を、何故わざわざ「普通は」とか「みんなは」と主語を大きくして事を荒立てようとするのだろうか?
わざわざ世間を煽ったり、賛同を得るように仕向ける発言をするのではなく、自分自身がどう思うか、主語を一人称にして話すべきではないか?という「お気持ち表明」である。

だってそれご自身の「お気持ち表明」ですよね?←

あなたの言う「みんな」って誰ですか?
母数から考えて何%の人を「みんな」と言っているのでしょうか?
ご自分が正義だという確固たる証拠はどこにあるんでしょうか?
そういった研究論文や世論調査が出ているんですか?
そこの界隈にいる人全員にアンケートでも取られたんでしょうか?
どれくらいの母数に対しての良いね数なんでしょうか?
そもそも、「多様性」が謳われるこの時代に、「普通」という言葉を使って自身の欲求を世間に押し付けるのは、他者への「配慮」が欠けているのでは?←

そもそも会ったことすらないし、その界隈のことも全く知らないにも関わらず、ああいった「お気持ち表明」には、某掲示板開設者のような鼻につく質問を投げかけてやりたい気持ちになる。

呟く前に、それがその界隈での新たな縛りにならないか、誰かの好きを壊してしまうものじゃないか、今一度考えて欲しい。

以上、主語は等身大サイズで、呟くときはそれが好きな人もいるかもしれないという配慮を忘れないでほしいという「お気持ち表明」でした。

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