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おもひでぽろぽろ 娯楽としての散歩

政府の緊急事態宣言を受け、完全リモートワークが始まった。これからGWが明けるまで、基本ひとりぼっちで過ごさなければならない。

不要不急の外出はだめだが、「健康維持のための散歩は可」らしい。映画やイベントにも行けず、友人との飲み会もできない中、散歩は生活の大きな娯楽になるだろう。わが家の教育方針が20年越しに蘇った。

小学生の頃、私は多くの行動を制限されていた。

テレビもゲームも漫画も禁止。親が仕事から帰ってくる17時過ぎまでの間の散歩だけが楽しみだった。出かけていい範囲は家からだいたい1㎞以内(北はケーキ屋バイエルン、南は理容院ミヨシが目印)。父は私に「勝手に同級生の家なんか行くなよ」と教えた。子供たちの集まる公園にも行ってはいけない。買い食いもしてはいけない。縛りは厳しかったが、何もない部屋でじっとしているよりは外のほうがましだった。

学校から帰ってランドセルを部屋に置くと、すぐに散歩に出かけた。毎日通る道にも、その日その時にしか見られない風景があった。光の射し方ひとつとっても、季節や天気によってまったく違う。電柱に繋がれた犬が所在なさげに足元の土を掘っていたり、石畳に落ちた飴玉のてらてら光る表面に無数の蟻が群がっていたり、そんなものを飽きずにずっと見つめていた。

歩いていると、同じ年頃の子どもに出会ったりもする。彼らとすれ違うときは恥ずかしくて顔を伏せ、少し歩いてからそっと振り向いた。大抵はみんな後ろ頭を揺らして遠ざかっていくだけだが、ごくまれに、相手も振り返ってこちらを見ていることがあった。

そんなときは瞬間的に顔が熱くなり、「あの子と友達になれる!」という直感で胸が躍った。そして高揚感に包まれながら帰宅し、夜眠る前に、おぼろげになりつつある彼または彼女の顔立ちや背格好をできる限り瞼の裏にうつして反芻した。

数日、数週間、あるいは数か月後。
私とその子は偶然再会する。話しかけ、仲良くなり、一緒に遊びに出かける。
公園でぶらんことジャングルジムと鉄棒を回り、最後にすべり台の階段を駆けのぼる。先に滑り出した私のすぐ後ろにその子が続いたために、軽い衝突が起こる。
背中に重みと温もりを感じながら土の上に倒れ込むと、その子は慌てて私を助けおこし、頬についた小さな砂粒を手のひらではらってくれる。私たちは目を合わせて笑いあう。

レモンを絞った後の指先を嗅ぐように、何度もそんな空想を楽しんだ。頭の中の情景はどんどん鮮明さを増して、「その子と本当は友達じゃない」なんて信じられなかった。

でも翌日になれば、私はまたひとりぼっちで散歩に出かけ、誰とも話すことなく家に戻るのだった。

暗い話のようだが、この時期の出来事は自分から切り離せない大切な思い出になっている。生活に制限が多く、他者との接触が少ない中で見聞きしたものや考えたことは、平時より純度の高い「わたし個人」の体験として残る。

家でニュースやSNSを見るだけでは気が滅入るこれからの1か月、久しぶりに娯楽としての散歩を楽しみたい。人と話さず近寄らず、ただ10歳の自分を連れて、ゆっくり歩いてみようと思う。

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