神道についてのインタビュー(抜粋)

『今読むと未熟で至らない内容ですが、それでもまだまだ価値のある話をしていると思うので一部を抜粋して紹介します』

古川陽明 明治~大正の人たちは、世界の一流国になろうと、西洋からの情報を積極的に取り入れていた。戦争での勝利など日本が活気づく流れがありましたが、昭和のあたりから風向きが変わってきた。明治以降の教育を受けた人間が国のトップになってから天皇陛下を蚊帳の外に置くなど、おかしくなったんです。当時の政治家も軍人もみんな優秀なんですが、集団になるとおかしくなってしまう。いまは左翼的な教育が薄れて、いい意味で天皇陛下に対する偏見がなくなっています。かつて、神社に行くことが右翼みたいに言われる時代がありましたから。


――いまのスピリチュアリズムは女の人が多数を占めていますが、昔男女比はどれくらいだったんですか。


古川 神がかるのは皆女性ですよ。なぜ女性がそうなるかというと、子宮があるから。子宮ってすごい言葉ですよね。神さまを奉る“宮”が肉体にあるんですから、神がかりもできるでしょう。それに日本は、天照大御神をいちばん上に置いてますから。男性社会でありながら、女性原理を大事にしているんです。女性原理とは受け入れるっていうことですが、それは自分を無にしないとできないわけです。無心、無欲、無我っていうことでしょ。天皇陛下って、まさしくそういう存在。自分のことを考えていたら、天皇の仕事はできないわけですから。僕らとしてはできる範囲で自分を高めてこの現実世界に貢献することが、天皇(ルビ:スメラミコト)の大御心にかなうことだと思うので、そういう生き方をしたらいいんです。神道ではそれを天照大御神の御神徳として「光華明彩(みひかりうるはしく)」と教えています。つまり、各自の魂の光を美しく輝かせる事。それを小さいレベルにしたのが、ホ・オポノポノじゃないかと。彼らは、古神道と同じことを言っていますよね。人によっては、カフナの流れはエジプトがルーツで、日本経由だという人もいます。


――霊学・霊術を語るとしたら、やはり平田篤胤からでしょうか。


古川 もっと言うと、吉田神道あたりから入らないといけないですね。吉田神道には、あの時代の日本にあったすべてが集約されています。元祖神仙道と言えるもので、結局陰陽道も伝がなくなってしまい、吉田神道系の伝を全部もってきているというのがありますから。


――度会神道(ルビ:わたらいしんとう)はどうなるんですか。


古川 あの当時、神道に経学を持ち込んだのが伊勢神道、度会神道です。それも、寺の坊さんたちが両部神道(仏教の立場から作られた神仏習合思想)を作り出したので、それに対抗してできたものです。


習合の仕方も、仏主神従で、仏が本体で神様が仮に現れたものとした。それを度会神道は逆にして、その理論付けもしていた。そこに吉田神道が道教的なものを取り入れたので、霊符とか呪文なども道教のものを使っているんです。また、吉田家から阿闍梨になってる人がいるので、密教の修行を取り入れたりしています。神仙である北斗七元星宿真君という仙人から伝わった秘密の教えがあると吉田家は主張したんです。ですから、元祖神仙道ですね。その吉田神道の流れを汲んだのが、吉川神道とか山崎闇斎の垂加神道(江戸時代前期の神道説)なんです。

垂加神道に対して国学の四大人(荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)と言われる人たちが、仏教伝来以前の日本古代の復権を言い出したんです。その流れで、皆独立に学術的なことをやり始めた。そのあたりから本来の日本の姿、たとえば儒家的な「男は泣かない」に対して、「いや泣くんだよ。感情をあらわにしていいんだよ」ということを言い出した。このときの平田篤胤は実践家なんです。いろいろな秘伝をもっていて、西洋の黒魔術まで知っていたし、大蔵経を全部読んで、大居士の名前をもらったりしていました。なかでも神仙道にすごく入っていて、仙道寅吉という、天狗界とか山人界の人間とか言われている人物を何年も観察したうえで、これは本物だと寅吉の師である杉山僧正に教えを請うなど、霊界通信のようなことをしています。それが明治維新につながり、平田派が精神的支柱となって暗躍していた。そういう流れがあった上での明治維新なので、オカルト的なものが背後にはあるわけですよね。黒住宗忠は吉田神道の流れを汲んでいますし、天理教もそうです。

西洋でもこの当時、アレイスター・クロウリーとか出てきていますが、正統派に対するカウンターカルチャーみたいなものですね。日本では王仁三郎が出てきた頃で、クロウリーと王仁三郎は同じ時代を生きているんです。この世代は、東西一斉に神がかっていたと言えるでしょうね。イギリスでも霊的な運動があって、薔薇十字会とか黄金の夜明け団などの秘教結社ができていました。


――伯家神道(ルビ:はっけ)と吉田神道とのかかわりは?


古川 天皇家の神拝作法を伝えているのが白川家の家系(伯家神道)でしたが、いまとなっては、何も伝わらなくなっています。それで、白川家が逆に吉田家に弟子入りして全部教わったそうです。結局、平田篤胤が吉田と伯家の両方の学頭になっている。だから平田篤胤は全部知っていたんですよ。伯家神道の伝は今の天皇家にはなくなっているという人が多いですが、宮地厳夫先生の話によると、とっくに天皇家にお返ししているということです。宮地先生は若い頃に白川家に書生みたいな形で入っておられたので、そのときに全て教わっているんですよ。だから宮地厳夫先生がやっている太祝詞とかは、元は神祇官、神祇伯がやっていることだから、今は宮中掌典などにのみ伝わっていて、もう表には出さないということです。いま残っているものは、「伯家部類」や国会図書館のデジタル本にある、伯家神道のお守り札や祝詞くらいでしょうか。

平田篤胤が死んだあとは、門人たちがすごいネットワークを作った。そのネットワークには本田親徳、宮地水位先生もいました。それと国学、尊王という流れがある。松本道別とか田中守平の霊術家の人脈って、いまで言う皇道右翼系の人たちなんです。みんな何かしらの事件で投獄されていますが、その時に一種の行に入ったんだと思います。牢屋という閉鎖空間で世俗とは隔絶されると、神道に行かざるを得ない。結局垂加神道でも神籬磐境之伝(ひもろぎいわさかのでん)は天皇を守るっていうもので、最高秘伝ですよ。霊的な意味があっての尊王です。

霊術には、こういう霊術家の人脈と、浜口熊嶽などの修験道系の人脈がある。面白いのは霊学が起こってきた時には、スピリチュアリズムが入って来ているんですよ。スピリチュアリティや催眠が入ってきて、そういう知識とは別の部分で、修験とか神道、密教という宗教的なものから、催眠という同じものが出てきた。この人たちは、結果的にどちらも同じだということに気づいたんです。浅野和三郎さんや友清歓真さんは、大本時代にスピリチュアリズムの文献を全部大本と自分に取り入れていたし、大本教の教義の霊も、スウェーデンボルグ(キリスト教の改革者)から取ったので全く一緒のだったりするんです。

 いずれにしても、平田篤胤が行った日本の復権みたいなものが霊術で、スピリチュアルという刺激を受けて、日本人独特の和魂洋才をしたということです。その盛り上がり方はかなりのものだったと思いますが、いまと違うのは、それが宗教に行ったこと。昨今のパワースポットブームは、宗教には行っていない。そこが時代の差だと思います。逆に言うと、宗教団体にからまないのが本当の意味で神道。みんな、神社が宗教施設だとは思っていませんよね。平田篤胤の思想とか僕が考えている神仙道には宗教的な枠組みがないし、世界中が神仙道だと思っています。文化や民族の仮面でわからないだけで、根底は全部いっしょだと思います。

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