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さかなのーと番外編 湖の記憶

大津市の古くからある市街地あたりは、湖岸に山の端が迫ってくる。有名な琵琶湖疏水に沿って歩くと、湖岸から1kmも行けば、斜度20度はある急坂になってしまう。
その山の端の一角にある長等公園に、三橋節子美術館を訪ねた。

http://www.city.otsu.lg.jp/i/manabi/bunka/nagarasosaku/index.html

亡くなられてすでに40年ほどになるが、わたしの世代の大津育ちの人にとっては、忘れられない人である。私たちの母親世代の人で、35歳で亡くなられるまで、100点は確実にあるというほど精力的に描いている。
たとえ大作であっても、アトリエ近くの長等公園辺りで見たであろう野草や、湖畔の光景を必ずはめ込み、絵の物語的な世界を積み重ねる、そんな作風の画家さん。
だから、それらの作品を観ると、作品のパーツや場面が、それぞれ私たちの知る原風景の記録にもなっている。とりわけ、晩年の連作「湖の伝説」などは、主題になっている湖の伝説の語りを、40年前の光景の前で聞くような懐かしさがあるのだ。
多くの野草は折られたり摘まれたりした後であり、また、多年草や木を描いても、幹の細さからか、枝の広がり方の描写からなのか、か細い一年草の類のように見えるほどのデフォルがなされている。
それでも、それらの植物のひとつひとつの種類を数え上げることができる。
その中には、今も生きる草花もあるし、ほんのいくつかだが、他の植物に居場所を取られて探さないと見つけられないものもある。
また、湖岸に描かれているヨシの茂みは、描かれた当時は急速になくなりだした時期に当たるのだが、一旦は、湖南ではほぼ絶滅し、護岸のあり方を見直し、再度人工導入され、今は何食わぬ顔で自然な顔で復活していたりする。
彼女が亡くなられるちょうどその頃に、琵琶湖の赤潮騒動が起き、
それへの止むに止まれぬ対応で、粉石鹸運動が起きたのもちょうどその頃……しかも彼女と同世代の女性たちが、人伝てに広げていったのだ……。
そんな40年の私たちの営みを思い、絵を前に何十分いただろう?
もちろんわたしは彼女とは面識ない。同じ市内とはいっても、学区すら違ったので所縁すらない(※)。
けれど、母の友達の描いた絵のような思いでいつのまにか観てしまっている。
絵の向こうで、その「懐かしいおばさん」が、「相変わらず、絵と関係ないこと考えるんやね」と苦笑いしている、そんな錯覚とともに。
40年後、僕は生きているか、わからないけれど、この絵や背景の伝説が似合う湖であるように、その思いを、来館者ノートに書き残して、帰った。

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