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県選抜にも、県大会にも出れなかった僕は今も尚サッカーをしている話。

僕は、宮城県登米市出身。
育ちも中津山小学校、米山中学校と約15年間過ごした。

そんな今回は、僕の小学生のサッカーにフォーカスしてみた。







僕は小学5年生から本格的にサッカーを始めた。

4年生まではスクールと少年団に少しずつしか参加していなかった。

僕が所属していたのは、最初は石越FCというチームだ。
家から50分ぐらいかけて通っていた。
またこの話は次回。

そしてすぐにFCみらいという移った。
米山町と南方町という2つの町の合併チームだ。

両チーム共に僕の同級生はとても少なかった。

石越FCの時は、3人。

FCみらいの時は5人。

僕の地域はサッカー人口が多くなかった。

そのおかげで僕は、宮城県の北部のトレセン
県北トレセン(県北選抜)に入っていた。

名前だけ聞くと宮城県の北部のトレセンって結構凄いんじゃない?って思うかと思うが、全く凄くない。


その当時の県北トレセンは僕の地域でサッカーをしていればほとんどの人が一度は練習に呼ばれる程だった。

僕は県北トレセンの一員として練習、試合に参加していた。

絶対的なレギュラーではない為、試合も度々しか出ていなかった。

わけもわからずただ、サッカーをしに行っていた。


そんな中、ヤマハカップという宮城県内のトレセンが集まる大会があった。

たしか各トレセン16人か18人ぐらいの選出だったと思う。

僕は正直落ちると思っていた。
結果も残せていないし、サッカーを始めて1年も経っていないし。

落ちたらまた頑張ろうなって話しているぐらいだった。


僕はその選考結果を出たのを今も覚えている。

チームの練習の帰りに呼ばれて、選考された選手の名簿を見せられた。

最後から2番目のところに僕の名前はあった。
正式に県北トレセンの一員になれた瞬間だった。

そこからいつしか宮城県トレセンが僕の大きな目標になっていった。


そんな中、ヤマハカップに出場した。

ヤマハカップで僕は、2試合連続ゴールを奇跡的に決めた。
そう、ほぼごっつあんゴール。
ゴール前で触っただけ。
県北トレセンからしたら他のトレセンからゴールをあげるだけで珍しいことだ。

ゴールという結果でまさかの県トレ候補に踊りでたとコーチから言われた。
むしろほぼ確実だと。

その日の夜の僕はもう居ても立っても居られず、もの凄くテンションが上がっていた。

県北トレセンのみんなで枕投げをし、夜更かしをした。

県トレに入れた。その一心で。

県北トレセンは、最下位かビリ2で大会を終えた。

僕は、その最後に県トレに選ばれる人しか呼ばれない発表会しか興味はなかった。

ドキドキして、発表の瞬間を待っていた。

宮城で有名な人たちが順当に選出されていた。


その中で最後の方に、県北トレセンの枠みたいなところがあった。


1人目はキーパーの選手。

2人目はFWの選手。


そこで県北の枠は終わった。

そう、落選した。

夢であった宮城県トレセンには選ばれなかった。

その場から立ち上がろうとしたが、今までにない程体が重かった。

県トレセンの選出された人たちと同じ空間にいたかった。

何回も間違いで後から呼ばれるのではないかとこれでもかと歩く足をゆっくりした。

そんな訳もなく、バスに乗り帰っていった。

これが僕が人生で初めて味わった屈辱だった。

サッカーをやめようと思ったほどだった。


ただ、今思えば県トレセンに選ばれた県北トレセンのチームメイトは理由があった。

キーパーの選手は誰よりも声を出し、チームを鼓舞し続けていた。
強いチームに大敗しようと必死にゴールは割らせないと気迫のこもったプレーだった。

もう1人のFWの選手は、誰よりも勝ちにこだわっていた。
ギリギリのボールを最後まで粘り強く追い回し、取られたら死にものぐるいで取り返していた。

客観的に見て、県北トレセンで目立っていたのはこの2人だった。


僕は、なぜか思うように動けなかった。

僕は、サッカーをなめていた。

前日まで県トレセン確実と言われていた夢物語を間に受けて勘違いしていた。

僕は、このヤマハカップから小学を卒業するまで県トレセンに呼ばれる事はなかった。

県トレセンに呼ばれる以前に県大会にも出場もできなかった。

僕は、チャンスをものにできなかった。

もう二度と同じようなチャンスはない。

今思うとそうだった。


だけど、人生というのはとてつもなく面白い。

あの落選して、人生の終わりのような顔をしている少年はその先の明るくも時には曇り時には雷が鳴るようなサッカー人生が始まったばかりだと知っていない。


そして、25歳になっても、今も尚、サッカー選手としてプレーしているとは誰も思ってないだろう。

小学5年の僕に教えたいけど、教えたくない。


自分の力で切り開いていってほしい。


田舎のトレセンのただの1人だった僕はまだ現役だ。

ヤマハカップから何十年と経った今、サッカーをしている。


ただ、タイムスリップして目の前に小学5年の僕がいたら真っ先に言う事がある。


今より10倍がんばれ、と。
基礎基本を愚直にやれ、と。
楽しめ、と。

逆に小学5年生の僕が今の僕を見てなんて思うだろうか。

まだまだだよな。

いつでも誇れるように生きよう。
サッカーも私生活も。

もう一度言う。

僕は、県の選抜にも県大会にも出た事がない。

チームメイトの同級生と3人、5人。

そこからここまで来た。

まだまだ満足していない。
まだまだやりたい事が残っている。


僕は、登米市を代表して戦っている。
勝手にそう思ったりしてる。(勘違いごめんなさい)

どこで育とうが、どこでやってようが、なにに選ばれようが、同じ空気を吸っている以上、同じだ。

だからこそ僕は、サッカーというスポーツで表現し続ける。

僕が沢山の事を経験し、言葉として伝える。

そんな僕みたいな人の姿を見て、少しでも夢を希望を持ってくれる人がいたら心の底から嬉しい。

だからこそ、僕はまだ走り続けます。
何回失敗しても、何回倒れても、走り続けます。
今、僕にできる事を全力でやります。

もし、とても時間があってなにもする事がない人がいたら僕らの試合を覗きに来て下さい。
観光のついででもいいです。

僕のようにサッカーで自分を表現する人達が沢山います。


これからも僕は、自分の為、家族の為、チームの為、地域の為、応援してくれる人の為、全力で立ち向かいます。


今、できる事を全力で。

橋本 光晟

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