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「たそがれは」 02

(承前)

第六信つきぬ。
『十一月十六日南京出発、
 句陽、圓陽、常州、無錫、蘇州ノ経路ヲ行軍、
 一月六日午後四時頃、
 蘇州場内宿営地ニ到着シマシタ。
 現在ハ、某校舎ヲ兵営トシテヰマス。
 正月ハ圓陽ト常州の中間地点ノ
 呂白鎮トイフ町デ迎ヘ、
 東方ヲ拝シ萬歳ヲ三唱シマシタ。
 皆モ達者デ
 オ正月ヲ迎ヘタデアラウ事ヲ考ヘテ。
 一日朝午前九時半(支那時間八時頃)
 行軍ノ為出発シマシタ。
 途中十二月二十八日、
 白兎鎮トイフ所デ泊ツタ時、
 地上ヲ白クスル位ノ雪ガ降リマシタガ、
 之モソノ日ノ内ニ消エマシタ。
 其後降雪モ見ズ朝晩霜ガ降リル位デ
 寒サハ内地ト大差アリマセンカラ
 安心シテ下サイ、
 體ハ頗ル元気デス。
 蘇州市内ハ以前の入城ノ時ト全然異リ、
 自治委員会モ設立サレ、
 支那住民モ大分帰還シテヲリ、
 街ノ辻々ニ支那巡警ガ立ツテ
 警戒シテオル状態デ
 和ヤカナ気分デシタ。
 我々ハ今
 城内外ノ重要地点ノ警備ヲシテヰマス。
 二十日過カラ
 附近ニ残匪討伐ニ出ルコトト思ヒマス。
 現在ノ處デハ何レヘ出動ヲ命ゼラルルカ、
 将又長期駐屯カ予断ヲ許シマセン、
 只次期命令ヲ待機シテヰマス。
 家ノ方ハ皆達者デスカ。
 赤ン坊モ生レタ事ト思ヒマスガ
 男デシタカ、女デシタカ、
 生レタ日時ヲ知ラセテ下サイ。』

(野村玉枝『雪華』より)

※ ※ ※ ※ ※

戦地にいる野村勇平から
妻の玉枝に宛てた手紙のうち
第五信と第六信は
「夫戦場に出でて六十日」から始まる
一連の歌の後に記されている。

だが、
その内容から察するに
昭和十二年の年内ではなく
年が明けてから届いたものと推測できる。

おそらくは、次回に紹介する
第七信に前後して届いたのではなかろうか。


日本内地では、
上海事変のニュースが
連日のように報道され、
激戦となった大場鎮の戦いも、
その後の南京へむけての進撃も
新聞やラジオから流れてきているが、
そうしたニュースに逐一耳を傾け、
夫の所属する師団や部隊の名を
ラジオの音に求めている姿が
次の一連の歌から偲ばれる。

 
南京中山門より突入する富士井部隊

 「南京の中山門に押寄せて
  今し戦ふとラヂオは報ず」

 「光華門脇坂破り今入ると
  声わななきてラヂオは告ぐる」

 「光華門今脇坂が乗越えて
  攻め入る今攻め入るとのニュース」

 「中山門富士井部隊入るという
  その富士井部隊夫も入りしか中山門を」

 「中山門夫の部隊の突入を
  ニュースに聞きつ心たかぶる」

 「入りまししか倒れまししか嬉しとも
  悲しともわかぬ声たてて泣く」

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