不意に聞いたあの声
近藤です。
早朝に暖房をつけようかな、と思うようになってきた山の我が家です。
先日、自分の声がラジオから流れてくる、という場面に遭遇しました。
よく知っているはずの自分の声をテレビやラジオを通して聴くのは何度経験しても恥ずかしいものですね。全然慣れません。
(徳倉はどうなんでしょう。彼ぐらいいい声といい話ができる人は恥ずかしくないのかしら)
こんな声なんだ、とか、こんな話し方してるんだ、とか思って聴いたし、内容なんてあんまり耳に入ってこないし、嬉しいけどもう消してくださいって気持ちにもなりました。
自分の低めの声は嫌いではないけれど、あんまり愛想がよくないように感じて、もう少し高い声もいいんじゃないのか、と思うことが時々あります。
アメリカの小学校でインターンをしていた頃のことです。小さな学校とはいえ、スタッフが多く、パートタイムの人もいたので、毎日の申し送りがとても大事でした。たくさんの情報を短い時間で伝えることが必要だったためにとにかく早口になりがちでした。英語が上手くないからという理由でがっかりされたくない、そんな気持ちで落ち着きがなかったと言ってもいいかもしれません。
そして、子どもたちに対しては子ども番組のうたのお姉さんのような高めの声でオーバーアクション、ハイテンション。今思えば、当時の私の教室での仕事ぶりは先生ではなくて着ぐるみを着たキャラクターのようなものでした。子どもたちが帰った後はいつもヘトヘトで片付けをして、必要以上に疲れていました。
また、保護者と話していると、英語が下手なことに加え、アジア人は若く見えるため信頼されていないように感じることもありました。実際、学外活動の引率に行っても生徒と同じように子ども用の入場券を渡されることもよくありました。
「私って27なのに全然大人扱いされてないっていうか、信用されてない感じがするんだけど」
と同僚に相談したところ、もっと自信を持っていいよ、というようなことを言われました。英語が下手なのは当たり前だよ、アメリカ人じゃないんだから、と。
でも先生という仕事柄、表現の仕方は大事だからね、とゆっくり話すことと腹式呼吸を使って深い声を出すことの二つを勧められたので練習して発声も話し方も直したのでした。
よく通る高い声に対する憧れは今もあるのですが、ラジオから流れる自分の声を聞いて思ったのは「やっぱりこの声のままでいいな」ということでした。
自分では今でもあまり好きではないなあと思っているこの声なのですが、智佳さんだってすぐわかる、と言われるのは嬉しいことです。
たかが声、されど声。一緒に苦労してきた相棒。そんなに悪くないなと思っています。
では、また。