子どもに待たれる
暑すぎますねえ、と挨拶したくなる今日この頃。雨が降らないので庭の植物も元気がない。
夏休みに入っても毎日何かしらバタバタしている。子どもがいると仕方ないのだろうが、そんな中でも私は朝ごはんと昼ごはんを気にせず、違うことにバタバタできて助かっている。
我が家の子どもたちは親が何もしてやらないおかげで自分の食べたいものを自分で作る能力だけは発達したようである。朝からチャーハンを作ったり、くるくるパスタに自分の好きな野菜だソーセージだを入れて煮込んで食べたり、焼きかげんにこだわった卵焼きを焼いてお味噌汁を用意して食べたりしている。きゅうりの買い置きがあればキムチ風味の浅漬けを作ったりしているのを見ると親がなんでもしてやらないっていい教育方針だわ、と自画自賛するのである。
さらに助かることにお願いすれば定食屋の主人のように二つ返事で私の分も作ってくれるのでありがたい。
昼は私が何も作る気配がなければ、子どもたちがなんか作ろうかな、と言い出し二人で台所に立つ。息子は料理番組や情報番組で見たことを試すのが好きなので、紫蘇の美味しい食べ方を試すために洗い方からこだわることもある。そして娘は家事ヤロウで見たそうめんレシピを再現するとかでいろいろな味のものを作ったりする。「手早く、簡単に」というプレッシャーはそこにはない。食べたいもの、作ってみたいものを作る、というシンプルな気持ちで料理をするので片付けの手間も時間もお構いなし。潔いなあと思う。
大人になるにつれ効率だの手抜きだの時短だのに魅力を感じてとにかく少しでも早くて簡単で片付けが楽なものを選んでしまうのだが、そんなに追い立てられるようにしていた過去を振り返るとあれでよかったのかなあ、という気になる。子どもが小さかった頃はとにかく時間がなかった。それは今もだけれど、追い立てられるような時間の使い方はもう卒業したいなと思っている。
最近、娘と倉敷のオーケストラの練習に行った。帰りの高速道路から見えた海が夕陽に照らされて綺麗だった。ものすごく疲れていたが急に思い立ち二人で水族館へ行くことに決めた。楽器を担いで外の水槽やプールのイルカを観ていると汗だくになったが、子どもと水族館へ行くなんてもうそうないよな、と思った。それなら急かしたりせず付き合ってやろうという気持ちになった途端、肩の力が抜けた。
そんな心の平穏を楽しんでいると娘が「お母さん、暑いよ、もう帰ろうよ。つかれたよ」と私を急かすではないか。「もうちょっと観ようよ、イルカがジャンプするよ」と言うと「もっと涼しいときに友達と来たいわ、とにかく帰ろ。シャワーしたい」ときた。待ってやっているつもりだったが子どもの方が待ってくれていたのだった。こうして子どもはできることが増えて、してもらう身から卒業するのだ。
そしてこちらはだんだんしてもらう身に返っていくのだな。
ちなみに今日の朝ごはんはオーダーが間に合わず私の分は作ってもらえなかった。
残念である。
では、また。ごきげんよう。