無能な僕が28年間の人生の中でブレイクスルーした瞬間まとめ

普段生きる中でスキル的な話(例えばマーケティングとかデザインとかコーディングとか手法的なもの)は情報が溢れかえっていて、ググればある程度のことは解消できます。

一方で、人生というイベントに対する指南書は圧倒的に不足しており、いわゆる成功法(=ライフハック術)的な情報は世の中に流通していないのが現状です。(仮に流通していればみんなが豊かであるはずだし、そうなっていないのは本質的ではない情報ばかりが流通しているという現実がある)

そんな状況を打開すべくこのnoteでは僕が28年かけて学んだ、誰でもブレイクスルー(限界突破)して成長し理想の自分に近づくためのノウハウを分かりやすく再現性を持たせて解説します。

このnoteを読んで実際に行動に移すことができれば、人生の主導権を握ることができるようになるので是非お試しください。

人生は運で左右され、努力は報われない

このエッセンスは名著「人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている」から学びを得ています。

残念ながら努力は報わることもあれば、そうでないこともあります。というか99%くらいの確率で残念ながら努力は報われません。もし仮に努力が報われるという理屈が正しいのであれば努力(=時間やお金などのリソース投下と定義する)をすれば100%の確率で成功するという事実が成立しなければなりません。もしそうなれば誰もが頑張り、成功しているはずです。でも現実問題そうはなっていませんよね?頑張っているのに成果が出ない人がいる。これは絶対的に揺らぎのない事実です。ではなぜこんなことが起こり得てしまうのか。その答えは「運」にあります。基本的に成功を左右(=ハンドリングできる)変数は「基礎能力」×「投下時間」の2つだけです。成功するためにたくさん勉強したり、時間を使ったりすることで成功に着実に近づいていくことは可能です。しかし、基礎能力に関して言えば、体感90%以上の人は一般人並みのIQや身体能力に分類されるので、能力に差が出にくい部分となります。そして投下時間に関して言えばもっと平等です。なぜなら1日あたり24時間しかないことはこの時空に生きる以上絶対だからです。これらの事実を踏まえると、誰しもが大体同じ土俵(=条件)で戦っているということが分かるかと思います。なのになぜ、突出した成功者がいるのか。その特異点を産む要素こそ「運」なのです。ここで言う運とは、例えば「学びたいと思っている領域のプロフェッショナルと繋がることができ、インプット時間がお大幅に短縮された」であったり「圧倒的影響力で自分をモチベートしてくれる特別な存在と出会うことができ意識が向上した」などの特異な事象を指します。これらは天気や自然災害などと同じでいつどこで起こるか分かりません。これらを人々は運と呼びます。人生を振り返ると努力する中で自分で気づくこともあれば他人に教えて貰い、そこで人生の飛躍を遂げたという経験は皆さんにも少なからずあるのではないでしょうか?これらの前提を踏まえると努力をすることは当然であり、僕らがフォーカスすべきはこの「運」の要素に再現性を持たせるということです。運なのに再現性?と思われるかもしれませんが、これは実は可能です。例えば、サイコロを振って1の目が出る確率は1/6です。運もこれと同じである確率のもと、良いことや悪いことが起きます。もちろんこの確率自体は左右することができず、一方で僕らに左右することができるのは、サイコロを何回振るか、というその試行回数の部分になります。つまり、運として成功の目を出す確率は増やすことはできないが、サイコロを降りまくることで1の目である良いイベントを出す「回数」を増やすことは出来るのです。これこそ人生の成功を左右する本質的な変数(運)の正体です。なので、努力している人が成功しているのは単純にこのサイコロを振る回数が多いだけであって、その中で成功の目を引ける回数が多かっただけなのです。(他人からはこの成功の目を何回引いたかは見てとることができるが、その人が何回サイコロを振ったかまでは見えない)結論何が言いたいかというと、努力をするだけでは成功できません。成功したければ努力は前提のもと、運を引き当てるためのアクション(例えば人に会いまくるであったり、常にインプットのアンテナを張っているであったり)をすることが重要ということです。逆に言えばこの運を引き当てるためのアクションをやりまくれば誰でも確実に成功を手繰り寄せることができるということです。そしてこれを書いている僕自身もサイコロを振りまくってきました。だからこそある程度自分に自信を持てる成功体験をすることができたと思っています。

やりたい事を誰でも確実に見つける方法

やりたい事が見つからない。これは多くの人に当てはまる悩みの1つです。しかし僕の経験上やりたい事は誰でも100%見つけることが出来ると確信しています。そもそもなぜやりたい事が見つからないのでしょうか?その答えは以下に集約されます。

①思考耐久力の不足
②成功体験の不足(←こっち超重要)

①思考耐久力の不足
思考耐久力の不足とは、簡単に言うと考える手間を放棄しているということです。僕の経験上やりたいことが見つからない人の9割はここに分類されます。やりたいことを死ぬ気で、脳みそから血が出るほど考えたことはありますか?僕はあります。本当にやりたい事を見つけ人生を効果的に生きたいと思うのであれば、まずは死ぬ気で毎日自分の人生の使い道を考えるべきです。この苦労をせずやりたいことが見つからないという人は単純に面倒なことをやりたくないという、脳みその本能に翻弄されてしまっていると気づく必要があるでしょう。人間の脳は原則変化を恐れ現状維持の道を無意識下で選択するというプログラムが記述されています。なのでやりたいことを見つけ、人生を転換するという行為はこのプログラムに逆らうため莫大なエネルギーを要するのです。これはとても疲れることです。心身ともに疲弊するのは間違いないのですが、その先にやりたい事がみえた世界は雲が消え、1本の明るい光が見えるような状態になります。まずはこの死ぬ気で考えるというステップからやってみることをおすすめします。

②成功体験の不足(←超超超本質的な話です)
実はやりたいことは分かっているんだけど、無意識下で勝手に「できないこと」に分類してしまっている人はとても多いものです。そもそも僕らの脳ミソはやりたい事をその実現可能性で無意識のうちでカテゴライズする癖があります。例えば焼肉を人生で初めて食べた人がいるとします。そこでその人の頭の中では無意識下に「値段もお手頃だし、自分の稼ぎでもまた行けるぞ」とやりたい事(=実現できそうなこと)にカテゴライズするというイベントが発生します。一方で「年収1億稼ぎたい」と思っている人がいたとします。しかし1億稼ぐというイベントは焼肉のように偶発的に起きる物事ではありません。なのでそもそも経験することができず、やりたい事にカテゴライズするというイベントすらも発生しないのです。つまり、何が言いたいかというとやりたい事リストに、何か物事をカテゴライズするためには、その経験、もしくはその疑似体験が必要だということです。でもこんな事を言ってしまうと矛盾が生じますよね。やりたい事を意識的にもつためには、やりたい事を経験する必要があるという矛盾です。ここで登場するのが「成功体験=疑似体験」です。例えば年収100万円の人が年収1億円を目指そうとすると目標がはるか先に思えてしまい、そもそも実現できなさそうな気がしてしまいます。一方で年収3000万の人が年収1億を目指そうとすると、あと約3倍稼げば目標に到達するので、なんかいけそうな気がしてくるのです。この「なんかいけそう」という感覚を呼び起こすトリガーとなるのが、年収3000万稼ぐという成功体験であり、年収1億稼ぐという目標の疑似体験になるのです。よく大きな目標は小さなステップ(階段)に分けて1個ずつ達成していくことが重要と言われます。その意味は目標を細分化して何をやれば達成できるかを明確にするという意味でもありますが、本質的には目標を小さく細分化することでなんか行ける気がするという疑似体験を得ることなのです。まとめると、果てしなく遠い目標でも小さな成功体験を雪だるま方式で積み上げていくことが出来れば、なんとなくできそうな事に分類され、やりたい事リストに入れることができるのです。こうやって僕はやりたい事の大きさを日々地道に大きくしていっているのです。果てしなく大きな夢でもこのロジックを知っていれば時間はかかるかもしれませんが確実に実現に近づくことが出来るとそう確信しています

やる気に再現性を持たせて成長を持続化させる方法

やる気が出ない。だけど頑張れない自分にも嫌気が指す。そんな経験は誰しもあると思います。僕も波が激しい人間で、ガッと走り始めたと思えば急に止まってその場から動かなくなる、ということを繰り返してきました。そんなことを何度も何度も繰り返すうちに、このやる気の正体が段々と分かってきて、自分をどうすればモチベートできるかを少しずつ理解できるようになってきました。このエッセンスではどうすればやる気をコントロールして着実に目標に向かって登り続けられるのかを紐解いていきます。

そもそも、やる気と漠然に使っている言葉の解像度をちょっと上げてみましょう。やる気がある状態とは僕の解釈では次のような定義です。やる気がある状態とは、「何かの影響を受けて自分の平均的な精神エネルギーを超える活力を見出せる状態」のことです。このやる気を紐解く上でのポイントはまず、この「何か」とは何かを明確にすることです。そもそも人間は反応的な生き物なので、人間の内面で起こる変化は全て外部の反応の写鏡であるという原則があります。(何も起きない無の世界では人は何も感じることができない)この原則に沿って考えると、やる気を引き起こす「何か」は外的な要因です。僕はこのやる気を引き起こす要因の正体を、やる気が出るたびに観測していましたが、この何かの正体は僕の場合が次のようなものであると見出すことができました。例えば偉人の言葉、頑張っている友人の姿勢、ギャンブルでの大負けの経験、一般的に無駄と言われるような時間の使い方などです。自己啓発本を読んだ直後はやる気が上がったという経験がある人は多いでしょう。また、僕は少し特殊なのかもしれませんがギャンブルで大負けした時にやる気を感じることがあります。これは負の外的な要素(経済益損失)がトリガーになっている場合です。ギャンブルで大負けすると「クソ!こんな負け額は気にならないくらい稼いでやる!」という反骨精神が湧き起こってくるのです。僕のお金を稼いでやる!という気概は本当にこのギャンブルの大負けの経験に助けられて成長しました。このように外的な要因の解像度をさらに上げると、やる気のトリガーには正と負の二種類があることが分かってきます。やる気に再現性を持たせる上で重要なのはまずこのトリガーの種類を理解することから始まります。もう少し詳しく話すと、正のエネルギーは先述の通り外部のポジティブな影響を受けてやる気が出るケースです。この正のやる気トリガーは健全な動機である一方、その破壊力に欠けるという特徴があります。自己啓発本を読んでもやる気が持続しないのはそのせいです。そもそもこの正のトリガーは欲求階層説で示すところの自己実現や自己承認欲と言われる割と高次な(高尚な)欲求なので緊急性も必要性も低いのです。だから、自己啓発から得るやる気や、周囲の尊敬できる人から得るやる気は長続きしないのです。一方負のトリガーはもっとドロドロしたもので「やばい、大負けして金が無い。どうしよう、本当にヤバい」と生きる上で現代に必要なお金を失ったことによって引き起こされる、生理的欲求なのです。ここで重要なのは負のトリガーはwantではなくhave toであるという点です。やりたい、とかそんな悠長なことを言ってる暇はありません。やらないとマズイのです。ここまで理解できると、自分をコントロールするにはこの正と負のやる気を使い分けていくことがポイントであることが見えてくると思います。日常的に偉人の言葉に触れるために読書をしてみたり、意識が高い人が集まる職場環境に行くのも良いでしょう。より破壊力の強い負のトリガーを求める場合は意図的にたまに「落ちる」と良いです。これは、無駄な時間とお金の使い方を派手にやるということです。こうすると失ったものの大きさに後で気づいて反省し、もっと頑張らないとと思えるようになるのです。長くなるのでここで一旦切ります。次項ではこのトリガー達よりももっと本質的で破壊的な威力を持つモノの正体をお伝えします。

やる気よりも強烈で破壊的なモノの正体

このエッセンスは名著「ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣」から学びを得ています。

前項ではやる気を引き起こす外的な要因(トリガー)を解説しました。しかしトリガーは当たり前に駆使していくレベルのもなので重要度はさほど高くありません。ここではトリガーよりも破壊的で、持続的なやる気を引き起こすモノの正体を解説します。

結論から言うと、その正体とは「習慣」です。この次元はまさに境地で、意図して使いこなすことが出来ればかなりのスピードで成長することが出来ます。そもそも人間は習慣の生き物であり、脳みそに染みついた行動パターンを苦しいと思わず、むしろ心地よいとさえ感じる生き物です。分かりやすくやる気と表現してきましたが、境地のレベルに達するとこのやる気という概念が溶けて無くなり、普通にやってるだけという感覚が訪れます。つまり本人は頑張っているという感覚を失うのです。かくいう僕もあまりオープンにはしていないのですが、家族旅行や特別な行事などが無い限りは休み無しで仕事や自己の成長に時間を充てています。これは昔僕がメディア運営やYoutuberをやっていた時代の名残で、とにかく成果を出したかった僕はスキル不足を時間で補おうとして躍起になっていました。毎日数千文字の記事を数本書いたり、Youtubeの動画を100本以上撮影から編集まで全部したりと、とにかく毎日必死で働いていた訳です。こんな生き方を1年以上続けると、確実にこの生活が習慣として自分に染み付きます。ここまでくるもうこっちのものです。頑張る、やる気を出す必要が無くなり呼吸をするのと同じ感覚で動き続けることが出来るようになるのです。こんな話をするとこの境地にいくためにまずはやっぱり頑張らないといけじゃん、という指摘が上がってきます。しかしこれはその通りで、やる気を定常化して当たり前にするには結局頑張らないといけないのです。そのために先ほど解説したトリガーがあります。そしてやる気に関して最後にあなたの中に毒を残すようなことをお伝えして終わりにします。残念なお知らせですが、そもそもやる気が出ても持続的に頑張れない人はかなりの確率でそのままズルズルといくことが多いです。もっとストレートに言うと、頑張れない(=高い目標に向かって登っていけない)人は頑張れないまま人生を終えていくのです。これはなぜかと言うと、そもそもこの頑張ったり、頑張るためのトリガーを使いこなすというための動機が存在しており、心の中にある小さな灯火のようなものが無い人世界には一定数がいるからです。これが無い人は残念ながらどんなに外的要因を受けようが頑張れないのです。こればかりは残念ながら先天的なものであると考えざるを得ないというのが今の僕の持論です。どんなにトリガーとなる働きかけをしても5年以上同じこと(頑張らない言い訳)を言い続けている友人が僕にはいます。彼は恐らくこれから10年先でも口では頑張りたいと言い続けますが、きっと変わらないと思っています。5年かけて変わらないことがこの先10年で変わるとも思えないのです。なぜこのような事が起きてしまうかと言うと、僕はそれが先天的な、欲求の強さに紐付く遺伝子レベルの話だと思っています。欲求の強さには人間という個体において差が必ず生まれています。(動物でも群れのリーダーになる欲求が強いオスとそうで無いオスが存在しているように)この欲求の強さが小さい人は残念ながら頑張れない部類の人になります。しかし僕はこのnoteを読んでいる人が1人の漏れもなく、この欲求が強い遺伝子を持つ部類であると思っています。そもそもこんなところに普通は辿り着かないからです。「何かしら自分を変えたい。」そんな小さな心の中の火をみなさんは持っているはずなので、あとはその火をどう絶やさず、大きくしていけるかを考えていけば良いのです。

どう生きるかは死から逆算すると見えてくる

自分の生き方に自信を持てない人は多いものです。かくいう僕も2年前くらいまでは自分の人生をどう生きるか、自分は何のために生まれたのか、自分は何をしたいのか、という答えの見えないような問いに悩まされ、一時軽い鬱状態になったこともありました。しかし28歳を迎えた現在、僕は自分の人生の意味、なぜこの世界に生まれてきたのかという理由、そして自分はこれから何をすべきかという点に対して100%の自信をもって回答できるほど、人生に対する解像度を高めることに成功しました。このきっかけとなった出来事こそ「死」というイベントの存在でした。今まで死というイベントに向き合う機会などなかったのですが、25歳前後でどう生きるかという命題に向き合い始めたことをきっかけに、人間は必ず、絶対に誰しも死ぬという事実に直面しました。死に対して向き合ったことのある人は皆経験すると思いますが、それは恐ろしいものです。この世から自分が消えることを想像すると、本能的に身の毛のよだつような恐怖が沸き起こります。想像してみてください。死を迎えるとその後あなたはこの世から消え、二度と人生を生きることができません。最愛の人と言葉を重ねることも出来なければ、この美しい世界を目にすることはもう二度とできないのです。正直このnoteを書いている今この瞬間でも、僕は泣きそうなくらい恐ろしい思いをして書いています。それくらい僕は死が怖いです。しかし、こうやって死に向き合うにつれてポジティブなことも起き始めました。それは、後悔のないようにこの人生を生き抜きたいという思いでした。僕の人生観はここで明かしているので興味がある人は読んでみて欲しいのですが、簡潔に絶対的な事実を一つお伝えするとすれば人生に意味なんてある訳が無いということです。とても残酷な物言いに聞こえるかもしれませんが、人間なんてただの原子の集まりで物理的に言えばその辺に転がってる石ころとなんら存在の意義に変わりはありません。しかし、人間は幸か不幸か脳が発達してしまったばかりに、人生に意味なんてものを求めるようになってしまったのです。しかし一方でこの脳の発達は僕らに自我というギフトを授けるという、まさに恩恵をもたらすことにもなりました。僕たち人間は自分の生き方を自分で決めることができる、つまり神のような存在になった訳です。意味の無いこのダラダラとした人生約100年に、意味を持たせることができる存在になったということです。例えばロールプレイングゲームではゲームをするあなたはまさに神のような存在で、ゲームの中であなたは変幻自在にプレイすることができますが、人生もこれと全く同じです。人生はコントロール出来ないと思い込んでいる人がいますが、これは100%間違いです。人生は完全に自分の思うようにコントロール出来ます。コントロール出来ないと思っている人は、実はコントロールするための手法(コマンド)を知らないだけなのです。つまり、人生はこの人生をコントロールするコマンドさえ知ることができればいかようにもなるということです。ここまでの話をまとめると、そもそも人生に意味なんて無いので、意味を探すのをやめましょう。時間の無駄です。それよりも、シンプルにこの人生というゲームをどうやったら楽しめるかと考えるべきです。物事は非常にシンプルで、どうやったらこのゲームを楽しみきって、「あー楽しかった。もう飽きちゃった」と言えるようにできるかを考える方がよっぽど生産的で、人生を豊かにすることができます。この人生観を手に入れてからというものの、僕の生き方は一変しました。毎日のすべての意思決定において、(本当にすべてです。)どうすればこの人生を後悔なく生きれるか、遊び尽くせるかということを追求しています。だから僕は基本的にお酒を飲みませんが、この理由は将来年老いた時にどう人生を楽しむかを考えた際に健康寿命を最大化させることこそ重要だという事実に気づいたからです。お金があっても、健康でなければ何もかも楽しむことができないからです。これと同じで、誰と過ごすか、何を口にするか、毎日余暇を何にあてるか、何を目指して生きていくか。すべてのことにおいてどうすれば人生を楽しみ切って死ねるかを考えて生活しているのです。長くなりましたが、今何に向かって生きていけばいい人は死とまずは本気で向き合ってください。終わりがあるからこそ、人生は有限であるからこそ、本当に自分のやりたいことが見えてくるはずです。



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