うっかり冒険家

新居くん、冒険家だね。と言われるたびに、そうではないのです、と弁解したくなる。

だって、世の中にはたくさんの本当の冒険家がいらっしゃる。僕と同じ新聞記者出身の角幡唯介氏なんかには、記者としても冒険家としても、足元にも及ばない。というか、同じ土俵にも立っていない。

激務の中、休みを作っては未踏の壁を登る友人なんかもいる。僕にはまだ見ぬ岩の上を目指して一心不乱に努力はできない。僕は、根っからの出不精のめんどくさがり屋なのだ。

角幡氏は、著書「新・冒険論」(インターナショナル新書)にて、本多勝一氏の​冒険の定義を引き合いに議論を進めている。それは次のような定義だ。

①明らかに生命への危険を含んでいること ②主体的に始められた行為であること この二点さえ満たされていれば、その行動は冒険であると本多勝一は言う。「新・冒険論」(インターナショナル新書)

僕がやっている、北米の川を数週間から数ヶ月、カヌーで旅するといった行為は、冒険の定義には辛うじて引っかかっているような、いないような。確かにカヌー旅は、明確な命のリスクがある。転覆しても助けてくれるかわからないし、クマもそこら中にいる、といった危険だ。

でもなんとなく、冒険とは呼べる気がしない。心がけ次第で、そのリスクは極限まで回避できるからだ。

人間は、命のリスクがある日々を過ごすと、覚醒する。長期にわたるカヌーの旅には人を覚醒させる命の危険がある。その快楽は味わったものだけにしかわからない。というか表現する方法を探しているけどうまく見つからない。

そんな行為を表す言葉としてはやはり「冒険」が一番しっくり来る。そしてそんな快楽を独り占めしておくのはもったいない気がする。「冒険が限られた才能ある人々のものであっていいのか」と思うのだ。

しばし、旅を語る時の自分の肩書きにしばし悩んでいた。

そんな中、ラジオに出演して「パリに遊びに行った初日にバッグを丸ごと盗まれたんです」という話と、「ユーコン川を2ヶ月かけて漕いだんですが大変でした」という話をまとめてした。そうしたら、パーソナリティの住職・服部さんが、それらの話をごっちゃにして、「うっかり冒険家」という肩書きを作ってくれた。

なるほど、言い得て妙だ。これなら、むず痒い冒険という言葉を僕でも使える。ありがたく拝命させていただき、しばらく使わせていただくことにした。

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