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絶望に慣れておく

数年前に発見した古いオールナイトニッポンのエピソードで、ついつい何度もポッドキャストで聴いてしまうものがある。

もともと日本でもあまりテレビを観なかった私が、さらに日本を15年近く離れ、まったくわからないお笑い芸人さんをゲストにした番組を楽しめているというのもおかしな話なのだが、不思議なことに、楽しいのだ。

インパルスというお笑いコンビの板倉さんという方がゲストにでているオールナイトニッポンゼロという放送。
おそらく、お笑いが好きな人には有名なのであろうテレビプロデューサーの佐久間宣行さんがメインで、都度、いろいろな芸人さんを呼んで話をする。

私はそもそも彼らが振り返っている過去すら知らないので、勝手に番組や情景を妄想しながら聴き、そのあとでネット検索してその芸人さんの風貌を確認したりしていた。

そして、この板倉さんの回を聴いていて、なんだかガツンと殴られたような気持になった。

メモ帳にこのことでnoteを書こうとかきとめたまま2年以上経ってしまった。

「大金っていうのは知名度に払われるんだよ。
才能に大金が払われていると思うなよ。
それを分かっておかないと、後で苦しむよ」

さらりと板倉さんのいったこの言葉。

いい、悪いはない。
けど、それを分からないと、苦しむと。

どのくらい才能があるか。
どれくらい努力してきたのか。

残念だけれど、それが飛び切りの高収入の暮らしに反映される保証など、現実の世界ではない、と。

芸人である彼は、きっと、そのことばを幾度となく眼前に突きつけられてきたのだろう。

そして、それはいろんな職業に、たぶん結構普遍的に、あてはまると思う。



人間って、能力があることや、がんばって努力を注いだことを評価して欲しいと思いがちだ。

それは学校教育なんかでは、まあ、「べき」論としてそうだろう。
でも、いったん社会にでてしまえば、実際に金を稼いでいくという意味ではそうではない。

悲しいけれど、周囲を見回した時、自分より稼いでいるひとが、必ずしも自分より才能があったり、努力しているわけじゃない。

それはどのくらい世間にアピールできているか、
どのくらい(えらいひとに、権威者に)認知されているか、
だったりする。



なにかの分野に卓越して、すごく専門性が高くて、他の人なんかよりめっぽう優れていることがプロだと、私は思っている。

プロ野球やプロゴルファー。
プロの歌手。
プロのピアニスト。
プロの華道家。
プロ彼女にパチプロ。

でもそこには同時に、
それで自分を養っていけているか、
というところも含まれているだろう。

自分でプロの歌手といくら言ったところで、生計をバーテンダーでたてているのなら、やっぱりそれは「プロ志望」であってプロそのものではないと。



XXのプロ、になろうと思ったら。
たぶんそのために、その分野で経験や研鑽を重ね、他の人よりも優れたところにいかねばならない。

あるいは、気づいたらXXのプロになっていたというのなら。
人生の経験がその分野に積まれて、あるいは天才的な素地もあって、他の人より優れる結果になったんだろう。

ただ。
そこに至って食べていけるようになったとしても。

決してそれが必ずしも「高い報酬」に連動するわけではない、というこの指摘を、
頭の片隅に置いておくべきなのかもしれない。

「絶望に慣れておく」
そう、その芸人さんは、むしろ明るめの声でいっていた。

あらかじめ、ちょっと絶望しておくと、あとから大きなものが来たときに、ああこれかと乗り越えられるんだと。

絶望に慣れておこう。

そしてそこから切り替える術も、ちゃんと用意しておこう。

ありがとう絶望先生。
ありがとう日本のポッドキャスト。

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