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白鳥と、ネコと。

「マシュー・ボーンの白鳥の湖」映画版を観にいった。

先日近くにあるコミュニティ映画館へ「オッペンハイマー」を観にいったとき、壁に「マシュー・ボーンの白鳥の湖」の告知を見つけ嬉しく驚いた。

昔、渋谷の文化村で舞台を観て圧倒された、男性が踊る白鳥。
その映画版が公開になるらしいと。

演出や解釈で全く違うものを生み出すというのは、料理や音楽もそうだけれど、本当にすごいと思う。「こうあるべき」を超えたところがみえるひとの才能というのには圧倒される。



そして、20年前、文化村に一緒に観に行ったひとのことを思い出した。
Nちゃん。

私も、他の友達も、彼女のことを下の名前で「Nちゃん」と呼ぶ。
けれど彼女は、私のことをいつも「苗字にさん付け」で呼んでいた。
12歳から知っているのに。
今思い返せば、たぶん、それが彼女の距離感を表していたのだろう。

そんなことを思い出したのは、鮮烈に印象的な「マシュー・ボーンの白鳥の湖」のおかげかもしれない。

たいして仲の良くなかった、一緒に舞台を見に行くことなどなかった、そんなNちゃんに、あのときとても熱心に誘われて、この作品だけ一緒に行ったことを。

そういえば、他にもお願いされたことがいくつかあった。

社会人になってから、偶然、通勤電車のなかで出くわして、その時私が持っていたトッズのバッグを「どうしても欲しい」と、何度も何度も連絡が来て、結局譲ったこと。

ほかにも、唐突に夕食をしたいと熱心に誘われたことがあった。
そしたら、自分のお見合い相手とその母親についての相談を3時間ひたすらされて終わったこと。

こう思って考えると、数年ぶりに電車で出くわしたら、使っていたカバンを欲しがられるって、ちょっと、かなり変かも。

でも、その時は驚かなかった。
なんていうか、
それが彼女だった。

考えてみたらNちゃんは、「テイカー」だったんだと思う。

アダム・グラントが提唱した人間の行動様式は3つ。
「テイカー(taker)」受けとる人
「マッチャー(matcher)」ギブとテイクのバランスをとる人
「ギバー(giver)」与える人

もはや連絡を取ることもないテイカーのNちゃん。

コーチや先生、おじさんたちからは、彼女はとっても人気者だった。

お育ちのよいお嬢様。柔らかい物腰で、偉いお医者さんの娘で、自分自身もお医者さん。
立派な邸宅という感じのおうちに住んでいた。
スタートラインをかさ上げして、一人だけローラースケートを履いて徒競走してるみたいに、違うところにいる子だった。

競争心が強いとか、誰かの上に立とうというよりも、
世界は自分のためにあると信じていただけなのかもしれない。
それによって周囲のひとが離れていくという経験もないくらい、
「テイク」し慣れていたのかもしれない。



Nちゃんの記憶から、今度はやはり中学からの同級生、Mちゃんのことを思い出した。

Mちゃんはその女子校の中でもきらびやかなグループに属していた。
当時盛んだったパーティー(語尾を下げずフラットに発音するほうのやつ)や合コンによく行っていた。
小柄で、健康的に日焼けしていて、目が印象的なかわいこちゃんだった。
しょっちゅうプレゼントにもらったというブランドもののアクセサリーや小物を持っていて、私服だったうちの学校の中でも、際立っているおしゃれさんでもあった。

でも、なぜか通学路が重なるおかげで、私たちは仲良くなった。
わざと急行待ち合わせの各駅停車でゆっくりと渋谷に向かいながら、いろんな話をした。
各駅停車のなかで話すMちゃんは、みんなが思っているような「あそんでるひと」というよりも、進学の心配をしたり、グループの仲間の人間関係を悩んだりする普通の子だった。

「あのさ、Mちゃん。そうやっていっぱいプレゼントもらうとか、ディズニーランドに連れってもらうとか、そんなお願い聞きいれてもらうのってどうやるの」

ある日、電車の中で、私は勇気を出してたずねてみた。

それは企業秘密だよお。最初こそ冗談にしたけれど、Mちゃんは、私が真剣に知りたがっていると気づいてくれた。

「あのね。相手にとってかわいくするの。『いいなあ。いいなあ。これ素敵だなあ』とか『ねえねえ、ここ、一緒に行きたいなあ』ってね、下から見上げていうの。このひとはぜったいに自分のことが好きだから、私の願いをかなえてくれるはずだって信じて、いうの。はい、じゃ自分の一番かわいい顔で、試しにいってごらん」

各駅停車の連結器横の3人席を陣取って、Mちゃんは私にレッスンをしてくれた。

そう思ってみると、テイカーの行動とは、明らかに余裕がある相手だったり、そこに愛があったり、もしくは聖人のように深い慈悲の心があるひとには、好意的に受け止められるものなのだろう。

ほら、映画「シュレック」の長靴をはいた猫のテクニックみたいに。
目をうるうるさせて、目の中にいっぱい星をいれて見上げるんだよ。

だって、助けてといわれるって、頼られてるって、やっぱりちょっと自尊心をくすぐられるものだと思うから。



こうしてMちゃんのレッスンを受けて、私はそれを使い始めた。
20代のころ。
高級ブランド品のお店で、指さし買ってもらったものはいっぱいあった。
ハワイ旅行を予約したから、代金は払ってね、なんて極悪非道なこともやった。
30代になったって、「ちょっと気に入らないことがあるとキミは帰っちゃうから、デートに行くときにはここにお財布を置いて行って」といわれていた。

でも、ある時、そんな甘やかしてくれていた人にいわれたのだ。

「あげることが喜びだったから、そこに後悔はまったくない。でも、キミは自分のちからでもっといろんなものを手に入れられる能力があるはずだよ。自分で手に入れるって、ただ与えられるよりもっと大きな喜びになるよ」

もらう側から移り変わる、きっかけだった。

その言葉は、「おねがい」と下から見上げて手に入れるモノや体験がくれる喜びなんかより、
自分が一日働いたあとにお金を出して飲むビールのほうが美味しいことを、
だれかに連れて行ってもらうよりも、
自分が自分を導くことの楽しさを、
正しいタイミングで私に気づかせてくれた。

更に時間が過ぎ。少しゆとりができたとき。
なにかに提供することで自分が感じる喜びがさらに大きいということを発見した。

私は見返りをもとめぬ聖人などではない。
「与えることで得る喜び」を見返りだと、ときには、感じられるようになっただけだ。

それに、
ただ一方的に搾取されるのは、
大嫌いだ。



ロンドンに来たばかりのころ出会った友達がいる。
同じ歳で、似たようなバックグラウンドな彼女とはすぐに打ち解けた。
それから7-8年の間は、週に一度は会うくらいとても仲が良かった。彼女のビジネス立ち上げも手伝ったし、自分のネットワークも助けになるならと紹介した。

ある時、ふと気づいた。
最近の彼女は、なにか欲しいときだけ連絡してくるみたいだと。

アメリカに出張いくんだよね。私、このチョコレートを5キロくらい買って来てほしいの。出張ならビジネスクラスだから買ってこれるよね。

この日本人の人と前から繋がりたいと思っていたの。
ディナーするんだったら私も呼んでくれる?

日本にいくとき、友達に送りたいプレゼントを持って行って、コンビニから宅急便で送ってくれる?

今日突然バイトの子が来られなくなっちゃって。悪いけど、店番してくれない?

友達は、大変なとき助け合う人だと思っていたから。できるだけ手を差し伸べてきた。
でも、まるで電車で隣の席の人が自分の肩に体重を預けて居眠りするみたいに、少しずつ、少しずつ、その重さがつらくなってきた。

これって、友達?
それとも、使われてる?

コロナで国境が閉じて、日本に帰れなかったとき。
ひとりで丸ごとチキンをローストして食べるクリスマスが辛かったから、連絡をした。

「ごめん、クリスマスはさ、仲良しの友達をうちに呼んで集まるんだ」

そうか、私は仲良しじゃなかったんだ。

仲良くなった当初は、彼女は私がどんな状況か気を配ってくれていた。
でもいつの間にか、それは消えていった。

私は「与えることで得る喜び」があれば全部受け入れる聖人なんかじゃない。
一方的に搾取されるのは、つらいのだ。
だから、距離を置くことにした。

だって。
50を過ぎて、ただ受け取る側なのではなく、ちゃんと自分の足で立って、社会になにか還元できているということが、どこかでなにかの意味を持っているはずだし、同じ歳の彼女にもそう思ってほしかったから。

以前も書いたけれど、
与えることは、自分が持っているものを減らすことではないと思うから。

だれかは、いうかもしれない。
そう思うのは、あなたにちやほやしてくれるひとがいなくなったからだと。
それはおばさんの遠吠えなんだと。

そうかもしれない。

Nちゃんは。
Mちゃんは。

いま、どうしているのかなあ。
50歳を過ぎて。
いまも、周囲に手を差しだして、お願いをしつづけているのかな。
ロンドンの彼女のように、上手にもらい歩いているのかな。

それとも。
そんな時期はとっくに過ぎて、自分の手でいろんなものを掴み取って、そしてそれをどこかの誰かに与え返しているのかな。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。