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生き方の選択、バタフライ・エフェクト

 物心がついてから色々な事があったが、やるべき事は常に自分が選んでいた。親や他人が選んだことはない。かなり危ないこともあった。
それでも年月は経ち、今68歳の誕生日を向かえる。なんとか生き抜いたという気分だ。
でも、子供は3人育てたので、日本の少子化対策に少しは貢献した。

人生の嘘
 アドラーの心理学において、「人生の嘘」という言葉がある。
「人生の嘘」とは、様々な口実、いい訳をして、人生の課題から逃げる。
その場の流れに身をまかせて生きる。

 人生の嘘つきは、頑張っている人間の足を頻繁に引っ張る、そして自分の位置まで引きずり落とす。
「3歳から体操づけで、ようやくオリンピックに出られる時、タバコ一発で辞退。だから、体操なんか儲からないし、止めた方がいい、スポーツなんか何がいいの?」などなど。

 これは「人生の嘘」をついている人の典型のコメント、人を貶めても、自分がやらなかった事のいい訳とする。さらに、それを承認されたいがゆえに、SNSで毒をはき続ける。そして同じような人達がそれに反応する。
「人生の嘘」は自分の中で完結して欲しい。

選択、実行
 私はこれまで、各種多様な事柄において選択と実行をした。だれでも多かれ少なかれ、自分の選択に後悔はある。完璧な選択はない、それでもきるだけ自分の考えで選択し実行していた。

 その選択の中で、正しい選択、選んでよかったこと、そんなことは考えたことはない。実行時に、常に考えて軌道修正を続けていた。
つまり、終わりの無い修正を繰り返していた。そして経験を積んでいった。
今思えば「経験こそ人生の宝だ」
「俺様の宝石さ」


 17歳の時に読んだ 浮谷 東次郎さんの自伝を思いだした。
私の好きな本だった。今自宅にあるのだろうか? コレクターでもないので無くてもいい。

「俺様の宝石さ」浮谷 東次郎
 1960年10月29日、ひとりの高校生が横浜から船でアメリカへ出発した。人の世話になるのは、飼いならされるのはいやだ…自分の資質と能力だけをたのみ、その限界に挑戦しつづけ、23歳で鈴鹿サーキットに散った伝説のレーサー浮谷東次郎が、2年半のアメリカ放浪のなかで発見したものは何か。ニューヨークの苦闘、ロスの解放感、ホンダCB77で疾走した大陸横断―手紙と日記による青春の実像。

「俺の宝石さ」浮谷 東次郎

嘘つきを信じる人
 
著名人を使った投資詐欺、普通に考えることが出来れば、こんなものに騙されることはない。人々がスマホを使うようになって、入れ食いになってしまった感がある。
ひと昔なら、家族が机においてある広告とか、変な電話がかかってきたりして気づく、そして注意するような怪しい話。
今ではSNSで、黙ってかってにやっている。誰も気づかない。

 ネットで儲け話を言っている人間の選択に身を任せる。
ネットの人達を「神」だとか言っている人々は、既に「嘘人」向こうの領域の人だろう。いないものとすればいい。既に世界が分断しているのだろう。

都市と都市
 「都市と都市」2013年というSF小説がある。海外ドラマにもなった。小説の設定は面白が、内容が探偵小説で、何とも不思議な物語だった。

「都市と都市」

「都市と都市」
 2つの都市があって、同じ地理的な場所に住んでいる。
しかし、お互い市民たちは、ある意思(および<ブリーチ>と呼ばれる脅威)によって、お互い無視して生活している。しかしどうしても両都市に重なる犯罪が起こる。それを解決していく探偵小説。

 2つの都市の条件として、一方の都市の住人は、もう一方の都市の住人や建物、起こる出来事を、たとえそれが1インチ先だったとしても絶対に「見ない(アンシー)」ように(つまり、意識的に心から消し去るか、背景にぼけるように)しなければならない。

 今の日本でも、そうなりつつあると感じてしまう。
ネットの評価基準で選択をする。大学のランキング、会社の評価、食べログ、儲け情報、製品ビュー、最後は個人の評価。なんでもネットで検索し、それを信じる人種がいる。
「目の前のモノ、人間を見ろ!」

 そのカウンターカルチャーとして、経験則で物事を判断する人も以外と多い。今の若い子は気づいている。

バタフライ・エフェクト
 「その選択でいいのですか?」
 「さぁ、わかりません」

 バタフライ・エフェクト、カオス論から見れば、手持ちの情報だけで、長期の工程が予定通りに終わることはない。
想定外の外乱や入力したパラメータの誤差で、結果が大きく変わる。
特に日本は災害が多いので、会社がよく掲げる都合いい長期計画は当てにならない。

失敗していた時代
 私は高校生の頃、今でもそうだが、「俺の人生」を送っていた。
私でも僕でもなかった。当時の俺はホンダCB750(ナナハン)に乗っていた。一時期暴走族だった。当時高校生でナナハン乗っていたら、そこいら中の暴力少年に因縁をつけられる。

 しかし、スマホもSNS無い時代なので、看板さえ貰って、バイクにそのシールを貼っていれば、それなりの対応が出来た。つまり、なんとか逃げられる時代だった。
これは今の時代との大きな違いだ。嫌な野郎にはったりが効く。
今は、マウント取るまで、SNSで永遠につきまとってくる。これでじゃ気が狂う。最悪殺し合いとなるだろう。

 1975年、当時の時代感を小説で書いたが、今の人達が共感するのは難しいと感じる。その感覚を説明出来たとは思えない。

修正1 
 そんな私が大きな軌道修正をした。
「これはかなりやばい、将来が見えない、大学へ行こう」
国立大学の附属校へ通っていた弟、彼の中学校の教科書を貰って、中学の基礎から英語を独学した。数学は問題なかった。現代国語は漢字が読めないので、小説を貪り読んだ。とくに翻訳もの、ミステリー、冒険小説が中心だった。
自分が常識知らずの馬鹿だと認めて、最初から学んだ。この選択が自分にとって大きな始まりだった。

 そして、今はタックル大学と言われる大学へ2浪で入学。大学を卒業後、何とか、大手企業の末端の会社に入り込めた。それでもYouTubeのエリート文化人が馬鹿扱いするカテゴリーの人間だ。

 この頃、自分達を「僕」と言う、普通科の進学校の人間達と、映画アウトサイダーで描かれているようなアウトサイダー「俺」。生きている世界の違いを痛感した。

 その時の劣等感は40歳位まであった。起業した会社へ移った後、ようやく消えた。仕事で大学教授や医者など「僕達」人間と接する立場になったが、会話していて、「お前ら綺麗事言って、ぬくぬく育ちやがって」
そんな敵対心が湧くこともない。そのバカバカしさに気づていた。

 だから、沢山の東大卒の子分を連れていた建築家の安藤忠雄さんと会って、仕事をしたときは、「凄いなぁ、このおっさん」と素直に尊敬した。
今もファンでもある。

サラリーマン時代の選択
 そんな優秀でもない、エリートでもない私は、高校時代からの経験から上(出世)に行けないともう決めていた。だから会社はそのリソースを使い倒そうと思っていた。
特許を書けば金を貰えるので、仕事の合間に書きまくった。表彰もされた。賞金も貰った。大手企業なので、保養所、特待券何でも申請していた。また経費という財布も利用した。特にバブル時はザルだった。

危機 
 私の所属していた半導体プラント事業部。その業績が21世紀に入ると、急激に悪化し、ついに事業部が解散した。

 親会社が2000年に入ってから半導体不況に襲われ、予定された半導体プラント建設が次々と頓挫していった。それが一番の要因だった。中国企業からの未払いもあった。共産圏は怖い。

私はそれから流浪の旅にはいる
 プラント屋から、社内ベンチャーとして、インターネット事業部、プロバイダー事業部の新規立ち上げに参加する。
しかし、激しいプロバイダーの事業拡大競争の中、資本を注ぎ込まないで、頑張れとしか言わない会社、当然顧客獲得出来ず沈没する。

 その後、ITインフラの営業を担当する。営業なんて初めてだった。ここでインフラとしての情報技術を学んだ。その時、サリーマン生活20年目だった。

 大手の総合電機メーカーを親会社とするエンジニアリング会社において、私は6度目も転籍していた。この時点で、出世は全く望めない消耗品になっていると判断した。

 既に44才(2001年当時)で、子育て真っ最中、私は子供の教育と教育費のライフプランを考えていたが、手詰まりであった。

 会社の上層部は新しい時代の流れについていけず、思いつきで組織をいじり回していた。仕事の内容が変わらないのに、1年間に3度も部署名が変わる始末。これでは自分の将来が安定しない。

 ライフプランのお金と仕事、そのベースがぐらぐらしている状況だ。
子供3人の教育費を稼ぐ方法は他にないか?
そんな切羽詰まった状況だった。

会社を辞める 起業
 
会社を辞めて、資本と事務所、営業先などバックアップしてもらって会社を立ち上げた。そして20年続けた会社は2021年に解散した。

 そこには、現在「僕」に属する人達が思いも寄らない苦労とノウハウがあると思う。ただ、それを整理して、ビジネスの指南書としても役に立つは思えない。その理由は話が理路整然としていないからだ。
つまりバタフライ・エフェクトってことだ。

バタフライ・エフェクト1
出会い

 出世も諦めていたので、私はその頃から好きに仕事をしいた。その影響で親会社や下請け会社の友達が増えていた。
そして自分の会社組織の命令系統から離れて独自に営業をした。報告は適当にしていたが、仕事は取っているので、文句は言われなかった。

 そんな不毛な日々をすごしていた頃、何処かの駅において、有楽町で開催される九谷焼の展示会のポスターを見ている時だった。

不思議な出会いだった。
 たまたま電車を一緒に待っていた親会社の総合営業部のT部長が話かけてきた。
「お前、九谷焼に興味あるのか」たまたま、昨日、NHKの特番を観ていた私。
「五彩の色づけが難しいのでしょう?」と知ったかぶりを答える。
「そうか、よく知っているなぁ、お前、今から見にいくか」と話が弾み、その後、やたらと仕事で呼び出されるようになった。まるでT部長の部下のような扱いをされていた。

 面倒だったが、それでも珍しいタイプおっさんなので、私も新しい仕事に興味もあり、断ることもせずに出張、食事会、飲み会に顔をだした。

 そして、親会社の費用でアメリカ、フロリダへ出張し、フロリダ大学などの情報システムを視察した。全く自分の会社業務の指揮系統から外れた視察だった。

 そこでは普段、滅多に会えないような人達を紹介された。また新しい情報システムも知る事が出来た。

 何であんな破天荒な事が出来たのか、それは親会社の威光、社外においての私の人脈によるものだった。
給料は主任だが、態度は部長。それが当時の私だった。

バタフライ・エフェクト2
ベンチャー企業の立ち上げ
 
 そんなことをやっていた時、会社は利益が上がらないので、次はリストラ策にでた。まだ余裕があったのか優遇処置のある早期退職者を募集し始めた。

 当然、私は早期退職を考えた。
そして、偶然化必然かT部長が私をリクルートした。
「お前、とにかくやってみろ、上手くいったら会社にする」

 最初なにを言っているかよく分からなかった。実はT部長は自分の将来のため、または自分の持っている医療法人の税金対策のためか、株式会社を作っていた。
しかし実行部隊がいない状態だった。この会社を一人前にしたい。

 そこで私に声をかけたようだ。私は言われた言葉を信じた。どのみち今の会社に未練はなかったこともあり、その話に乗った。
早速、早期退職の手続きをした。自己都合でないので、失業保険は直ぐにでた。

 それでも状況としては、子供3人、家も東京郊外に購入し、ローン35年、失業中。端から見れば破滅への道を歩んでいるようだった。

 それでも勝算ありというラフプランを当時作っていた。

  疲れていて、新宿で新幹線の切符落としたこともあった。駅員に新宿で切符落ちてないかと確認したら、届けられていた、そこで仮の切符を作ってもらって、ギリギリ乗れた。そんな綱渡りを飛行機でも海外でも年中だったよ。

 この状況を正直にT部長に話すと、通勤に便利な神保町のビルに小さな事務所を用意してくれた。何もない空っぽの事務所、電話やネットを引き、中古の什器も買い、パソコン、サーバーをセットアップして、事務所を作り始めた。

 私はそこで1人、約7ヶ月、無給で、会社組織をサーバ・クライアントとインターネットを駆使して構築した。
今で言うIT企業だ。それもIoT(設備システム)向けのITインフラ会社で、元々設備技術屋である私には合っている分野だった。

 同時にT部長と一緒に営業も進めた。専門書への広告、御用記事、技術文書もどんどん投稿し、とにかく会社の認知度を高めた。ホームページも開設した。

 まだ大手電気メーカーの威光もあり、T部長の力から大きな仕事を一つ受注した。受注後、親会社や協力会社、友人達の協力もあり仕事は大きな利益を生み。会社を軌道に乗せた。

 普段、仕事以外でも遊んでいた社外の仲間達、仕事は筋を通してやり、色々な所に関係を持ち、仲間を大切していた。そんな人的投資が効いていた。今で言う社外活動が効果的だった。

 無給だった期間の給与は、会社が軌道にのった年末に一気に支払ってもらった。年を越えると税金が凄いことになる。お金の管理もその時、基本は学んだ。
その後、いくつかもの危機を乗り越えて20年間会社は存続した。
今思えば「これを失敗したら明日はない!」そんな仕事ばかりだった。

バタフライ・エフェクト3
第二の人生の始まり

 時は経ち2021年夏、コロナ禍の中、65才の誕生日前に、長年高負荷で働き、遊び、子育てしていた心臓が壊れてしまった。しかし趣味のトラアスロンで鍛えた心臓のおかげで生き残った。

 会社は高齢になったワンオーナーのT社長の決断でその年の夏に解散した。すでにIoTのオンプロミスのシステムはオワコンでもあった。
「クラウド主体のGAFA時代には抗えない。違う選択をしよう」

天草から島原
道を塞がれているが、取りあえず登る


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