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転換期 子供が産まれた

初めて子供が産まれた時の話。
大人になった子供達、彼と彼女らに読んでもらえればと思い書いてみた。

[2月10日の夜]
分娩室内にあったデジタル時計は[2月10日の午後10時]を示していた。
「今日はダメだな」
A先生が、分娩台に寝ている妻、立ち会っている私にでもなく呟いた。
昨日の午後9時に、ここA産婦人科に妻が来てから、かれこれ23時間経っている。

妻にとって初めての出産、これはかなり厳しい状況だ。
微弱陣痛だそうだ。一般にこの様なお産は長くかかる。
私にとって、出産の立ち会いは初体験だ。
「こんな状態で無事出産できるのだろうか」
「子供は大丈夫なのであろうか」
不安な気持ちになっていた。

[時は1日戻り9日の夜]
 
トッルル-、トッルル- 、トッルル-(電話の音)自宅の電話が鳴った。
このころ私はトライアスロンの選手だった。会社が終わった後、毎日、常に練習をしていた。
今日はイトマン横浜でスイムの練習。
泳いだ後、何時ものようにランニングで帰宅すると、電話が鳴っていた。
取ろうとしたとたん、切れた。
時計を見ると午後9時30分であった。留守番電話にしていなかったのが悔やまれる。
重要な要件なら、またかけてくると思い夕食を作り始めた。妻は実家に帰っているので自炊だ。昨日の夕食の残り物で食事を終えると、時間は午後10時。

トッルル-、トッルル- 、トッルル-また電話が鳴る。
秒で受話器を取る。妻の実家の義母からだった。
娘(妻)が今日の午後9時頃破水したので、A病院に行き、そのまま入院した。また出産が夜中に始まるかも知れないので、こちら(実家)に来て待機していたらと言う。
私はそれも悪くないと思い。至急明日の会社の準備をし、妻の実家に向かおうと思った。

待てよ、なんと車がない。修理中だ。
しょうがないので義父に車で迎えにきてもらう。実家までは5キロほどである。
しかし本当にタイミングが悪い。

[2月10日の朝]
朝一に病院へ行く。
陣痛はすでに3分間隔ぐらいになっていた。気持ちとしては一日中付き添いたかった。
しかしタイミングの悪さは続く。本日、昇級のための部長との面接がある。今更キャンセルは出来ない。
事情を上司に話し、弾力的解決。休みを取った。
そして面接だけを受けて帰ることとした。

面接を終えて直接病院へはいかず、入院中に必要となる細々とした物を取りに一度自宅へ戻った。
なんだかんだとそこで時間を食い、病院に着いたのは午後8時であった。
車はまだ修理中、ママチャリなど持ってないので、レース用のマウンテンバイクに乗り、リュックサックを背負って荷物を運んだ。
流石に2月の夜は寒い。肺が痛むほどに自転車を飛ばした。
「これは練習にはなる」まだ余裕だった私。

「もう産まれちゃった?」
焦る気持ちで分娩室に入ったが、まだ産まれていなかった。
少し安堵したが、妻の方は疲労困憊のようだ。

妻は長時間、陣痛の痛みに耐えていた。
さらに入院してからほとんど食事が取れない状態だった。
栄養と水分補給は点滴のみ、さらに、いつ陣痛が強くなり産気づくか判らないので病室ではなく、分娩室内のベッドで今夜は過ごすことになった。
*******
分娩室内にあった時計は[2月10日の午後10時]を示していた。
「今日はダメだな」
A先生が、分娩台に寝ている妻、立ち会っている私にでもなく呟いた。
今夜はまだ産まれそうにない。私はこのまま分娩室で寝ることは出来ないので、自宅に戻ることにした。

食事は電子レンジで温める焼きそば。
「どんなに心配でも腹は減る」

[陣痛の痛み]
話は横道に。
妻が話すには陣痛の痛みは相当すごいそうで、子供を出産すると言う強い目的意識がないととても耐えられるものじゃないそうだ。

この痛みは男には到底分からない痛みだが、子供を出産する瞬間はオチンチンの先ぽからスイカを出すような痛さを想像するとよいと、ある子育て本に書いてあった。
また、骨盤を力でバシバシ、メキメキと無理矢理押し広げられる様な壮絶な痛みだそうである(個人差はあるようだが)。
これは痛いだろう。オートバイ事故で何度も大怪我した経験のある私は、その痛さが想像出来るので怖い。


[2月11日夜明け]
深夜0時、日付が変わった。
こたつに入り何時電話が鳴るかと意識を集中しつつ、頭を空白にしていた。
気がついたら寝ており、夜が明けていた。
朝もやの凍てつく街を、マウンテンバイクに乗り、私は病院に向った。

分娩台の脇の椅子に腰掛けていると、寝不足の虚ろな意識の中に色々なメロディー、歌が渦巻いた。
【CCR:雨を見たかい】【ナオミの夢】【ジョージハリソン:マイスイートロード】【シーズン】【バッドフィンガー:嵐の恋い】
中高校時代によく聴いた音楽が鳴り響く。

半覚醒状態。潜在意識の領域から音楽が蘇るのであろうか?
まあ、こんなことはどうでもいい事。とにかく結末が見えない。
もう30時間以上経つというのに陣痛の間隔は縮まらないし、強くもならない。本当に大丈夫なのか、危険信号が心の中で大きく膨れ上がる。

[出産]
昼近く、A先生が陣痛の間隔が短くならなくても、陣痛が来る度にいきむ(漢字ではどう書くかわからない)ことを指示してきた。
この時点で産道もだいぶ開いてきており、子供もかなり産道を落ちてきている。そろそろ一気に押し出さないと、母子の体力面から自力出産が不可能になってしまうようだ。
妻は中途半端な痛みを何時間も辛抱しているためか、
「帝王切開して」と言い出した。そろそろ我慢の限界に来ている。

妻のこんな状況をよそに僕は分娩台の脇で「ピッコピッコ」と発信音を出している機械が気になってしょうがなかった。これは子供の心拍計であり、妻のおなかに感知器を直接張り付けて子供の心拍を拾っている。

5分から3分の間隔でくる陣痛にあわせて妻はいきむ。そのたび心拍モニターが「ピッコピッコ]と激しく上昇する。そして一気に下がる。
通常、お腹の中にいる子供の心拍数は140~150/分ぐらいである。一般成人の2倍程度の心拍数だ。

目の前の心拍モニターも妻がいきむ時以外はこの領域を表示している。
センサーはそれほど精度が良くないのか、いきむ時ときどき信号を拾わず表示が0(ゼロ)近くになってしまう。
するとモニターの危険設定値を越えることからアラームが出てしまう。
デジタルの表示はこの時、青から赤へ変わる。
大丈夫だとは思うが、アラームが出るのは、やはり気分いいものではない。
もっといい機器へ設備投資したらいいのではと思うが、一概にいい設備=いい病院ではないので、あまり文句は言えない。

結局陣痛の間隔が縮まらないので母子の体力面と時間との兼ね合いから、A先生はあまりやりたくはないが、陣痛促進剤を少し点滴に混入することにした。あくまでも自然分娩にこだわっているようだった。

効果的面、とたんに陣痛の間隔が縮まりだした。母体の疲労もあるため、部分切開(普通の病院で、初産婦は必ず切られるそうである)と吸引分娩(要するに掃除機のでかいやつでアカンボを引っ張りだすのである。)をする準備した。

ものすごい力で妻が一気にいきむ、2、3回の強烈ないきみをすると、私が見る限り以外とあっさりと子供は飛び出した、狭い所を通り抜けたのと吸引したためか、頭はラグビーボールのようであった。
後で知ったが、産道を通過するとき、胎児は頭の骨をロケットみたいに変形させるそうである。

子供は比較的小柄だったが、すぐに泣きだし肺呼吸をはじめた。同時にA先生が子供の口の中の羊水をストーロで吸い出した。これを直ちにしないと肺に羊水が入ってしまい呼吸困難に陥るそうである。

子供は当初の予想と違い男の子であった。ちゃんと小さなチンチンがついていた。髪はふさふさ、顔もカエルみたいではなかった。
妻は安堵感と開放感の入り混じった顔で涙ぐんでいた。私も子供が無事生まれた瞬間は素直にうれしかった。

しかし疲かれた。

その後胎盤が排出された。同時に羊水と血が混じりあったものが多量に出て分娩台に溜まっていた。見ためは下半身血だらけと言う状態である。
助産婦さんが、「気持ち悪くない?」と聞いてきたが、血とか、切るとか縫うと言うことに、整形外科に頻繁に御世話になっている自分は慣れているので問題なかった。

[2月11日 午後2時10分誕生]
破水から38時間後の耐久レース、トライアスロンみたいな出産であった。
その後、妻の実家に電話をかけて出産報告をした。
私は寝不足のボロボロ状態、自宅に戻って寝ることにした。

病院をでると身体中に消毒液の臭いと生臭い血の臭いが染みついていた。
人間って、どう格好つけようが、やはり動物だ。
忘れてはいけない臭いだった。野性であれば、捕食動物を引き寄せる。

翌日から自転車、徒歩で病院通いをする。これは仕方が無い。
しかし結構きつい。
今住んでいる団地は丘の上にあり、近所には坂が多いのだ。とにかく***丘、***台地と名が付く場所が多い。
車があれば特に問題はなかったのだが、あの伝説のスキーツアー、その無理がたたり車は修理中から再帰不能となっていた。

その後、母子共に順調で、4日後に無事退院した。
私は36歳で、ようやく父親になった。

[その後]
長女が3年後、末っ子が7年後に産まれる。私は43歳になっていた。
出産には全て立ち会った。
産まれてたての子を見た一瞬、その子の未来が見えるという。今となってはそれもあったような気もする。
子供達の名前にはある種の祈りと呪いをかけてある。
それを打ち破るの子供達自身となる。


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