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1959年都立の中高一貫校が存在した。

あまり公言はしていなかったが、私は非常に微妙な、ある意味、伝説の都立の中高一貫校を卒業している。今やその存在さえ世の中から忘れ去られている。
だから、記憶遺産としてNoteにアップしておきたい。

まず、私の親はお受験をさせようとするタイプだった。調布の田舎の小学校卒だったが、一応中学受検した。受かったのは、何とも言えない実験校だった。
1968年。東京都立世田谷工業高等学校付属中学校へ入学。

この中高一貫校は非常に面白い学校で、大学受験雑誌にこんな記事があった。
東京都立世田谷工業高等学校付属中学校
沿革
1959年 1月1日 世田谷工業高校附属中学校設立認可
    4月1日 世田谷工業高校附属中学校開校
1970年 世田谷工業高校附属中学校付属中学校の募集停止
1973年 3月31日 世田谷工業高校付属中学校を廃校
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1950~60年代、都教育委員会が中高一貫校経営の経験を積む機会があった。
1959年、世田谷工業に実験的に附属中学校を併設したのだった。中堅技術者の育成が目的だったが、附属中学校の8割が進学を希望。
実際、附属中学校の1期生が卒業して1965年には、国立大7名、都立大1名、私立大理工学部などに役60人が合格。翌年の浪人生も含めると役100人が進学。生徒数は120人くらいかな。
ともかく、そこいらの普通高校を凌ぐ成績を収めた。

しかし、その後、工業高校だったことから、中学校と高校の連結がうまくいかず。1973年に閉校になった。
大学進学を目指す公立中高一貫校に対するニーズの強さがうかがえるケースだった。
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この連結の問題。1960年末期から工業高校の偏差値が落ちた。つまり普通科(進学志向)が主流となったのだ。
特に俺の時代(1970年代)になると、高校行くと完全に馬鹿(悪気はない事実)になった。高校の偏差値ががた落ちなので。勉強しないでもそれなりの成績が取れた。私はこのお陰で、平均成績が上位で、大学で奨学金を有利な形で貰えた。
しかし、相対的に馬鹿になっていた。だから優秀な子は再受験して違う高校へ進学していた。

1960年代末期、工業高校の生徒たちは普通にバイク通学していた。牧歌的な雰囲気の世田谷の田舎の工業高校。
しかし、それも大学の学生運動の煽りでバイク通学は禁止、学校がロックアウトとかで休校とか、とにかく都立高校は荒れていた。

そんな時代の末期に高校進学した私。学生運動のお陰で、私服通学が可能となっていた。
その生活はバイクと音楽とバイトが全てになった。(その話は色々書いてある)
ある種の熱に侵された青春を過ごしていた。
そんな私が正気を取り戻したのは卒業後だった。

ちなみに、間違いに直ぐに気づいたお袋は、弟を国立大学の付属校へ入学させた。(くじ運だろう)

写真が少ないけど俺のナナハン。

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さて、正気を失っていたが、10代でCB750をぶっ飛ばし、パットメセニーのような刹那的な深夜の道路を見ていた時代。
ある種の奇跡だったと思う。今の若い子にあの当時のなんだろう。情報が口伝え、伝説が各地で渦巻いていた世界観、また無敵感は、とうてい経験出来ない。SNSより刺激的だった。
これに正気を失わない方が難しい。
OFF RAMPしなかった時代。

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今から10年前、みなで新宿のフィリピンパブで騒いだ帰り。附属あがりも含めた同級生。

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皆まだ幹線道路を走り続けていた。

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