見出し画像

くれよんまさひろ          2012年4月24日

~当時の登園方法は、一度、近所の寺に集まって、保護者の引率で集団で登園していた。調布駅で線路を横切り北口から南口へ行く。
その当時、調布駅南口辺りはまだ舗装されておらず。雨が降ると泥沼化し、歩きにくい、さらに大きな水たまりも出来ていた。私は水たまりの中にタイコウチ(水中昆虫)を発見し、この集団登園の中から離れて、タイコウチを追った。

基地の町

私が幼稚園児の頃、昭和35年、西暦で言うと1960年の話だ。
当時、私の住んでいた調布市は、まだ調布飛行場が調布基地として米軍に占領されていた。
荒井由実の「中央フリーウエイ」の出だし、調布基地を追い越し・・・にも出てくるあの調布基地だ。
もう少し詳しく説明すると、その後、1964年、東京オリンピック開催時、選手村を作るため、米軍将校の居住区だった代々木のワシントンハイツがここに移転し、総称で関東村と言われるようになった。

関東村には、60年代のアメリカの校外の町ができあがっていた。広い芝生の庭、セントラルヒーティングと暖炉、そんなアメリカンハウス。野球場。派手なアメ車もあった。
日本は高度成長期時代の波に乗り、親が闇雲に仕事をしていた。
日本の子供達のほとんどが、今の子育ての基準では、放置状態。子供にとっては自由な時代だった。

多摩川と野川
野川(調布、三鷹を流れる多摩川の支流)が多摩川で、本当の多摩川は名前の違う大きな川だと幼稚園の私は思っていた。この頃の多摩川は私にとっては巨大な未知の川だった。そんな大河の多摩川は、工場や家庭の排水、汚物の垂れ流しによりドブ川になりつつあった。
また建築用の砂利の採掘も盛んで、河原には砂利穴が沢山あり、そこに水が溜まる。そのすり鉢状の深い水たまりは危険で、たまに子供が落ちて溺れていた。不法投棄や、犬も捨てられていた。本当に危険ゾーンだ。
今ある、球場やサッカー場があり、鮎も戻ってきて透明度も蘇っている綺麗な多摩川とは別物だ。経済が発展する時の影の部分でもある。
それでも昔の方が、魚が沢山捕れたように思う。何故だろう、一度消えたものは蘇らないのだろうか。

ひまわり幼稚園
話は変わり、私が当時通った幼稚園は「ひまわり幼稚園」という名前だった。
この私立の幼稚園は、調布駅南口の東急ストアーがある裏の辺りにあった。
今から47年前、幼稚園の周りは、一面麦畑だった。5月の青い空の下、緑色の麦畑の中に色鮮やかな、鯉のぼりが園庭ではためく風景をよく思い出。

そんな美しい景色の中、鯉のぼりのポールの下にあの伝説の「あびんちょ」がたたずむ。美し景色の中にあまり美しくない「あびんちょ」もついでに思い出す。
当時の子供達は「あびんちょ」を皆が知っていると思う。今で言う知恵遅れの女の人、とにかくデカかったし、子供好きは理解出来るが、怖かった。年齢はわからない。

集団登園
当時の登園方法は、一度、近所の寺に集まって、保護者の引率で集団で登園していた。調布駅で線路を横切り北口から南口へ行く。
その当時、調布駅南口辺りはまだ舗装されておらず。雨が降ると泥沼化し、歩きにくい、さらに大きな水たまりも出来ていた。私は水たまりの中にタイコウチ(水中昆虫)を発見し、この集団登園の中から離れて、タイコウチを追った。
水たまりで捕獲作業に入ってしまった私は、幼稚園に行くことを完全に忘れてしまった。
タイコウチをなんとか捕獲した私はタイコウチを保管しなければと思い、幼稚園ではなく自分の家に向かった。これがさらなる混乱を幼稚園で引き起こした。

さて、当然だが幼稚園に到着した園児の中に私はいない。この時、家にいたんだから、通園路を戻って捜索してもいない。ともかく警察沙汰の大騒ぎになったようだ。
お袋はその後、他の母親から、「まさひろちゃんがいる時の引率は凄く大変なのよね」と嫌みを言われていたようだ。

多摩川
当時から色々と問題の多かった子供だったようだ。昔の親達は、大人も警察もだが、意外と子供達に対して、放置というか寛大だったから、たいした問題にもならずに生き残れたようだ。

多摩川の話にもどって、多摩川は幼稚園から近くもないのだが、たまに遠足で連れて行かれた。当時の園児にとって結構な距離を歩かされていたと思う。さて、私にとって多摩川は大きすぎてあまり面白くはない。でも品川街道を過ぎれば、当時は辺り一面田圃地帯で、小さな用水路が沢山あり、多摩川より、途中の川では私は遊びたかった。

「まさひろちゃんはねー」と言われる子供であった私が、このローケーションを黙って通り過ごすわけはない。用水路にウシガエルの巨大なオタマジャクシの群れを発見するやいなや、幼稚園の隊列から外れた。その頃の相棒のYちゃんも私の後を追った。

二人でデカおたまを捕ろうと用水路に飛び降りたが、幼稚園のちびが手づかみで捕まえられるほどデカおたまは、鈍くない。時間は直ぐに過ぎ、私達を置いて幼稚園の隊列は多摩川に向かってしまった。私はさすがに前回の調布駅での行方不明事件もあり焦った。

皆を追うため、用水路を登ろうとした。が、なんと登れない。降りるのは勢いで何とかなったが、手がかりがなくって登れない。Yちゃんは半べそ状態だ。私は追い詰められた。

幼い衝撃
普段無口な子供だったが、こんな時でも私は無口だった。一方Yちゃんはでかい声で泣きわめいていた。
「たすげでぐでぇよぉ、だぁでかぁー」こんな感じ。
用水路から自力で脱出出来ないとわかれば助けを呼ぶしかない。彼の判断は正しい。

その時、ちょうど上の道を割烹着姿の婆さんが歩いてきた。幼稚園児にとって40才以上の女は婆さんだ。当時は25才過ぎればおばさん、今みたいに美魔女などいない。
さすがに無口な私も、助けを求めた。こめかみに小さなトクホンを貼った婆さんは胡散臭そうな顔を私達に向けた。
「何をやっているんだよ、この子らは」と言いなが、手を伸ばして私達を引き上げてくれた。
引っ張り上げてもらった後、私とYちゃんは、お互い目を点にして見つめ合った。二人は見てしまったのだった。「あれ」を。

その婆さん、スカートをはいていた。そして、がに股スタイルで私達を引き上げた。
その時、スカートの中は否応なしに目に入る。それくらいは別に問題はないのだが、その婆さんは、なんとパンツをはいてなかったのだ。
突然「おひげ」をみた私とYちゃんはびっくりだ。ちなみに銭湯で女の人の「おひげ」は見ていたが、真下から「+&」も含めて見たのは初めてだった。動揺しながらも良い子の私は婆さんに、「ありがとうございます」
と礼を言い。先に行く幼稚園の隊列を追った。
 
枯葉役
幼稚園での生活は、断片的な記憶しかない。この事件以外では、一度園内の遊具でちんちんを挟まれ、ちんちんが2倍くらいに腫れてしまった記憶がある。これは覚えている。おそらく、痛みが相当のものだったのだろう。

後、これはお袋から聞いた話だが、年長の頃、お遊戯会の練習で、地味な「枯れ葉」役であった私は、後ろで主役の練習に合わせて何度も同じ歌を歌わせられるのに飽き飽きして自主退場。園長先生の部屋で、絵本を読んでいたという。
こんな変わり者の子供だったが、友達は多かった。それは弱い者いじめをせず、悪ものとは直ぐにけんかしたからだ。ほぼ負けていたけどね。
ここまで。
*FBに100本以上あるノートから転載している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?