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モトクロス熱狂時代

写真を発見
子育ても、家のローンも、昭和の男としての全てが終わり、会社もようやく退職できた。
俺は自由だ!
「ちょっと待った!」
「ん?」
「緊急事態宣言の延長です」
「またかよ」
令和オジサンが暗い顔して総理大臣となり、その雰囲気が時代となっている。そんなぱっとしない日々、今後に備えて、自宅で断捨離を続けていた。

何でも押し込んでいた屋根裏部屋を整理する。すると懐かしい20代の頃のフィルム写真が出てきた。
デジタル写真の普及は21世紀からだ。私達の場合、40才くらいまではフィルム写真が中心だ。フィルム写真はその一瞬を記録する。直ぐに確認したり公開したりは出来ない。秘密の匂いもする。スナップ写真1枚でも、その価値は今のスマホ写真の数倍はあるだろう。

昭和56年(1981年)、今で言うブラック企業としか思えない会社しかない時代。拘束時間が長い、飲み会もある。付き合いゴルフ、麻雀、部の運動会、そんな典型的な大企業に勤めていた私。
毎日残業、土日に睡眠時間3時間程度でモトクロスの練習、準備、レース本番。そんなギラギラした頃の写真が何枚か出てきた。でも気分的には今より気楽だった。苦しいことは忘れているのかね。
令和、このとぼけた時代に、自分もぼけそうなので、記録としてNoteにアップしておこう。こんな時期もあったのだ。モトクロス熱狂時代。

モトクロスにハマる
1979年から83年の5年間、私はモトクロスレースに参加していた。
都立の工業高校時代はCB750に乗っており、夜の都心を走り廻る。そんなバイク小僧だった。
そんなある日、地元のおっさん達が多摩川の河原をジャンプしたりして豪快に走る姿を見て、「痺れた、まるでスティーブ・マックイーンだ」
10代の私は簡単に感化されオフロードバイクに傾向した。大学3年目、待望のモトクロスの市販レーサーヤマハYZ250 1976年式を手に入れ、河原を走り回った。

怪我をする
1980年、大学4年生、ホンダCR125 1979年式を中古で購入。ライセンスも取得して、練習を積んでいた時だった。夏休み前に多摩川の河原にあるモトクロス練習場で事故った。
怪我もした。左足の大腿骨を骨折した。救急者で運ばれて入院する。

河原に残ったバイク等は、練習を見ていた名も知らない若い子達が、自宅へ届けてくれた。そして、その状況をお袋に知らせてくれた。
携帯電話の無い時代は、若い子達の独特コミュニティーがあったので、私の家も直ぐにわかる。友達から友達への伝言ゲームのような時代であった。
さて、怪我は重症で、手術をした。大腿骨に30cmほどのL字鋼(ステンレス)を2本入れて骨を固定した。
とは言え、骨折は当時のバイク乗りにはよくある話だ。

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1ヶ月後、退院する。そしてリハビリを開始した。しかし、大学4年で卒研もあり、就職活動もあり、時間がない。体も元通りにはならず結局レースには出られなかった。
そうこしている間、81年の春休みに再手術して、L字鋼(ステンレス)を取り除く。ようやく普通に歩けるようになり、会社勤めを始めた。
大学時代に貯めた金で新車の市販レーサーを買った。
当時の私の脳内では、会社は取りあえず資金を集める場で、いつかは辞めて、モトクロス関係の仕事で食って行きたい、「将来はパリダガールに出るぞ!」と、子供じみた妄想に浸っていた。

社会人1年目、1981年のシーズン
埼玉県桶川モトクロス場(当時の関東のメッカ)でのレースだ。
大腿骨の骨折から、足の治具を取り除いてようやく調子が上がっていた。
このシーズンは何度か入賞している。

従兄弟の話
この年、後に東大理2にストレートで合格した従兄弟(当時小学4年生)、この子が夏休みに1人で、大阪から東京へ出てきた。目的は東大の校舎を見たいと言うことだ。
「お前は凄いなぁ」
私は、この子を本郷の東大へ連れていき、学食で昼飯を食べさせ、お土産に東大ノートを買ってあげた。
「これで合格するのだろうか・・不思議な子供だ」
さて、後はどうしょうか、明日はレースだし、富士スピードウエイ特設コースなので、ドライブがてら、この子を連れて行くことにした。

富士のコースはサンドコースで、体力をかなり消耗する。夏場なのでさらにキツい。
それでも私は頑張り入賞した。小さなトロフィーをもらって表彰された。
「どうだ、いいだろう、面白いだろう」と私が自慢げに言うと、その子は、
「こんな危険なこと僕には出来ない。僕は東大へ行くから怪我したら困る」と言い、全く興味を示さなかった。
「なんだよ、男の子だろう、燃えないのか!」「そんなに勉強ばっかりしてんなよ」

ちなみに数年後、彼は東大に合格した。
まだガキだった私。人にはそれぞれの生き方がある。これも彼の努力の証だ。一方この頃、私はモトクロスやバイクはきっぱり止めて、普通の仕事人となっていた。才能とか運とかに打ちのめされていた時期だった。
つまり挫折していた。でもね、失敗とは思ってなかったなぁ。

予選ヒート
さて、モトクロス熱狂時代へ話を戻そう。
この桶川でのレース、弟の大学のモーターサイクルクラブの連中が応援しにきてくれた。当時の練習仲間だ。あの頃、大学生はモータースポーツに熱かった。そこで私も良いところを見せたいと思い、スタートに集中した。

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なんとスタートで、私(66番)がトップだ。これをホールショットという。
1週目が2位、その後一度転んだが、4位で予選を通過した。
この頃、モトクロス人口は多く、関東大会程度のレースでも、ノービスでは予選が6ヒートもあった。4位までが予選通過。
そして、期待された決勝レースは、真ん中以降だった。

関東圏のモトクロスコースのメッカである桶川。ここでのレースはレベルが高い。メーカやモータスの秘蔵っ子の選手も出ている。私達はかませ犬的な立場だ。でも、有名選手と走る楽しみはある。

記憶を呼び戻してレース中継してみる。
スタートはトップ、予選通過するにはスタートで前に出るのは必携だ。
私のウエアは ブラックヘルメットで、ウエアの下にガードを付けていた。当時、アメリカ選手権に出ていた増田浩二選手(ホンダ)を真似ている。
マシンはホンダCR125 81年式水冷2サイクルの市販レーサーだ。リアサスはモノサス時代に入っている。
ただ、この時代、ヤマハYZ125が圧倒的に速かった。スタート時、両サイドがヤマハだ。

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ストレートから第一コーナーへ、ホンダCR、ヤマハYZ、私(ホンダCR)、ヤマハYZ。
この時代、草レースでもモトクロスは人気のあるモータースポーツだった。観客が結構いる。気合いもはいる。
第一コーナーをトップで抜ける私に、大学生の連中が大声で、拳を振り上げて声援を送ってくれた。

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桶川名物のストレート前のビックジャンプ。高速で飛ぶので、飛ぶ人は10mくらい飛ぶ。高い位置から平地へ降りるので、サスがフルロックする。勇気のいるジャンプだ。

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コーナーは外側のバンクを使うか、イン側をとるか、判断が難しい。ちなみに桶川は粘土質の路面なので、ウエットだとタイヤに泥がつまり滑る。トルクのない125ccエンジンでは走りが難しい。

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ラストラップでは腕がパンパンになっており、必死だ。
順位は落ち着き、4位でゴール。予選通過した。
こんな感じだが、体力的には、夜ご飯で握力が無くなり、ご飯茶碗を落とすほど疲れきっている。それでも翌朝は8時20分出社である。

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ダットサン
トランスポーターはダットサン・キングキャブ。
トラックは弟との共同所有だ。1台目のダットサンは弟が燃やしてしまった。そうこの頃は弟と一緒にレース活動をしていた。
弟はバイクのハンドルが1cm高くなっても気づくような男だった。私はハンドルが曲がっていても気づかずに乗っている男だった。

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そんな弟は大学卒業後、ホンダへ就職、ホンダレーシングカンパニーへ出向して、テストライダーとメカニックとして、世界グランプリレースのスタッフとして、後に活躍した。

私は、成績も振るわず、流石に仕事との両立は不可能になり引退する。
そして、引退後はトライアスロンに夢中になっていた。トライアスロンもそれなりの活躍と失敗だった。
あの失敗があったから・・思ってみたが、この歳になっては失敗も成功も区別がつかない。あったのは自分の人生だけ。日々これフルスロットル、楽しかっただけだ。そしてそんなセピア色の写真が懐かし日々。



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