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第1回 『0円で生きる』の鶴見済さんとカネなしトークイベントを開いて無銭経済にひたった一夜のこと


マーク・ボイルの『モロトフ・カクテルをガンディーと』(ころから)の翻訳者、吉田奈緒子さんが翻訳に取り組む過程での気づきや思いを綴ります。同時進行的に連載されていた紀伊國屋書店『scripta』からの転載を期間限定でお楽しみください。
『モロトフ・カクテルをガンディーと』書誌データはこちら→ http://korocolor.com/book/drinking-mc-withGandhi.html

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◉0円で生きる

訳書『無線経済宣言 ─ お金を使わずに生きる方法』(マーク・ボイル、紀伊國屋書店)を世に送りだして数か月ののち、『0円で生きる——小さくても豊かな経済の作り方』(鶴見済、新潮社)と題する書籍が刊行された。
「無銭」に「0円」。
かたや、2008年の英国ブリストルでお金をまったく使わない生活実験を始めたアイルランド人。かたや、日本社会の生きづらさについて90年代から考察と発信を続けてきた東京のフリーライター。遠く海をへだてた文化的土壌でそれぞれにつちかわれた「カネに頼らぬ経済」への志向が、いまこうして2冊の本に結実し、書店の経済書コーナーで異彩(異臭?)をはなっている……らしい。
鶴見済(わたる)さんとはじめてお目にかかったのは4年ほど前、東京・新宿のインフォショップ「イレギュラー・リズム・アサイラム」で、私の2番めの訳書にあたる『スエロは洞窟で暮らすことにした』(以下『スエロ』)の出版記念トークイベントが開かれた際である。N店長のはからいで、ひとりではとても人前で話せないという私のために、インタビュアー役を引きうけてくださったのだ。
2012年のご著書『脱資本主義宣言——グローバル経済が蝕む暮らし』を読んで、当時ボイルの第1作『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を訳したばかりだった私は、両者の視点の重なりに驚かされていた。翻訳にあたっては、日本語で書かれた関連分野の書籍を読みあさるのが習いだが、訳出中にこの本を参照できていれば、と惜しまれるほど、ボイルにカネなしの道を選ばせた現代社会のさまざまな病弊——資源の過剰消費、南北格差、労働搾取工場など——が共通の問題意識からわかりやすく解説されている。さらに、ご自身も野菜を育て、「古いもの、自然のもの、手作りのもの、地元のもの」に価値を見いだしていると知るにつけ、90年代のミリオンセラー『完全自殺マニュアル』の書名(恐れをなして中身は読まずじまい)から勝手につくりあげた著者像(黄泉の国の住人!?)とはだいぶ印象が変わってくる。
実際にお会いしてみると、やはり初対面という気がせず、話下手のコンプレックスもいつのまにか忘れて純粋に対話を楽しんでいたのだった。

鶴見氏による『スエロ』の書評は、ご本人のブログにて閲覧可能http://tsurumitext.seesaa.net/article/452913180.html

その後、「お金を使わない生きかた」の本を執筆中とうかがい、完成を心待ちにしていた。いよいよ刊行された『0円で生きる』には、日本でお金にあまり依存せずに暮らしていくための具体的方法が幅ひろく集められているうえ、各章末に付された「レクチャー」で理論面に関して行きとどいた説明がなされている。

◉カネなし対談

たがいの新刊の感想をメールで交わすうち、0円本がそろったことだし2冊の刊行記念トークを東京で、との運びに。公の場でしゃべるのはあいかわらず苦手なくせに、楽しかった前回の記憶に背中を押され「またご一緒できれば」と言いだしたのは私のほうだ。当日は、入場無料(投げ銭制)の気安さも手伝って、新宿二丁目の「カフェ★ラバンデリア」が満場の人であふれ、お金に頼らぬ生きかたへの関心の高まりを実感した。
MUSICA Y ANTI-CAPITALISMO(音楽と反資本主義)を標榜し、多彩な文化系イベントが年中ひきもきらない同店では、友人で音楽仲間の岩井里樹《さとき》さんもときどき、ソロあるいはバンドメンバーとともに自作の和製アイリッシュパンクを披露している。彼の歌にこめられた小さき民の心意気は、無銭思想ともどこか共鳴しあう……とかねがね感じていた。ふたりで十数年前からほそぼそと活動してきたユニット「ボーチョ・ポポーラ」(エスペラントで「民衆の声」の意)の演奏でオープニングを飾り、私もコンサーティーナ(小型のアコーディオン)を弾く。
バーカウンターには、zapacoさんによるケータリングの完全菜食(ビーガン)料理(こちらもカンパ制)が並んだ。おいしさもさることながら、ポテトサラダひとつとってもビーツで桃色に染めてあったりと、ポップで自由な雰囲気がいい。便乗して、私のしろうと0円料理、キクイモのきんぴらも横に置かせてもらう。『無銭経済宣言』でも多年生野菜の栽培が推奨されていたが、まさしくキクイモは多年生の救荒(きゅうこう)作物。友人からわけてもらった種イモを5年前に植えて以来、まったく世話いらずで、毎年冬から早春にかけて、きんぴらのほかポテトフライやポタージュも堪能できる。ついでに言うと、糖尿病患者には0円の薬にもなってしまう。
トーク本番では『0円で生きる』と『無銭経済宣言』から、日英両国における0円的実践の事例を、スライド写真をまじえて紹介した。鶴見さんが仲間と毎月開催している不要品放出市「くにたち0円ショップ」、英国で街路を車両通行止めにして開かれるストリートパーティ、捨てられたゴミから使えるものを救出(英国ではスキッピングと呼ばれる)、食料の自家栽培や採集(現在のボイルはアイルランドのフリーエコノミー拠点で、鶴見さんは放置されている国有地で、吉田は移住先の借家で)、「カウチサーフィン」「パスポルタセルボ」などのネットワークによる無料宿泊、等々。
なぜカネに頼らず生きようとするのかについても、格差の問題、生態系破壊の問題、「贈与経済」「恩送り」(ペイフォワード)「万物の一体性」(ワンネス)などのキーワードに触れつつ話した。会場からは「地域通貨をどう考えるか」との質問が出た。直接的な見返りを求めない無償の贈与を理想とするボイルは、ローカルな通貨であっても、交換的な思考にもとづいて数値に換算する以上、お金の一種ととらえている。とはいえ、地域住民どうしの結びつきをうながす意義はおおいに認め、移行期の選択肢として否定はしない。
カネへの依存を減らせば人とのつながりが強まる……などと聞くと、「人間関係がめんどうだからこそカネで済ますほうがずっといい」と感じる人も少なくないだろう。実際、それがために人びとが故郷を去って、匿名性の高い都会生活を選んできた心理も理解できる。しかし、他人と(そして人間以外の生き物とも)まったくかかわらずに生きられる人間はいない。自分も人間関係が得意なタイプではないとおっしゃる鶴見さんの実感にもとづく指摘——無料の生活をしているうちにできてくるのは、学校や職場で押しつけられるような過密できつい人間関係ではない。思いのほか居心地のいい、ゆるい関係だ——は忘れずにおきたい。

◉サンディーンの翻訳者と

プログラム終了後、しばし来場者と交流のひとときを過ごす。なかでもうれしいサプライズは、ある特別な経験を共有する方とはじめてお会いできたこと。つい最近まで想像もしなかったが、この世には「同じ著者の作品を翻訳した者どうし」なんていう、ちょっぴり不思議で、得がたい関係が存在する。『スエロは洞窟で暮らすことにした』の著者マーク・サンディーンによる最新作、『壊れた世界で”グッドライフ”を探して』(NHK出版)の翻訳を手がけた上原裕美子さんが、会場に来てくださっていたのだ。
『スエロ』には私自身、ボイルの著書とはまたちがった意味で大きな影響を受けたけれど、上原さんも『スエロ』に刺激されて「こんな本を訳したい」と思い、念願かなって『グッドライフ』を翻訳しているさいちゅうは(七転八倒しながらも)本当に幸せだった、となんとも半翻訳者冥利につきるエールを頂戴した。
金銭を手ばなして自由と心の平安を得た米国ユタ州のゲイ男性ダニエル・スエロを丹念に追った前作に対し、『グッドライフ』で描かれるのは、同様に今日の米国で徹底して簡素な暮らしを選んだ、しかし今度は夫婦者のケースである。その三家族三様(子どもの年齢もまちまち)のシンプルライフに加えて、随所にはさみこまれた、著者みずからが抱える矛盾や偽善と葛藤する姿が興味ぶかい。2012年から13年にかけて彼の語りをくる日もくる日も日本語化しつづけた私にとっては、なおさら昔なじみの告白を聞いているかのような気分にさせられる。
前作でも、スエロほどの思いきった方向へ踏みだせない一般的読者の心境を、著者サンディーンが代弁する構図が見られはしたものの、人物描写の力点はスエロのほうに置かれているため、訳者としては、著者本人の性格をもうひとつつかみきれずに終わった感が残っていた。そのモヤモヤが今作ではすっかり晴れた……どころか、身につまされる箇所がありすぎるほどだった。田舎で半農生活を満喫できるのは高速インターネットと電力のおかげという自嘲の言はもちろんのこと、作家としての承認欲求を持て余してエゴサーチ(ネット上での評価を気にして自分の名前を検索する行為)をやめられない様子など、アマゾンで訳書の売れ行き順位を数時間おきに確認してしまう情けないわが姿を見るようだ。
このほろ苦くも魅力的なドキュメンタリーを、原書刊行から1年とたたぬうちに、実に的確で読みやすい上原氏訳で味わうことのできた幸運に感謝したい。

◉モロトフ・カクテルで乾杯

さて、『無銭経済宣言』のマーク・ボイルは2015年に第3作Drinking Molotov Cocktails with Gandhi(『モロトフ・カクテルをガンディーと』)を発表している。
私がもたもたと『無銭経済宣言』を訳し終え、カネを使わない生きかたについて慣れぬ弁舌をふるっているあいだに、張本人のボイルはずいぶん先へと歩を進めてしまった。故国アイルランドのゴールウェイ州で手に入れた1万2000平米の土地をAn Teach Saor——ゲール語で「自由の家」——と名づけ、無銭経済の思想とパーマカルチャーの設計原理にもとづく拠点づくりに励んだり、ボランティアとともに古い豚舎を改築して「ザ・ハッピー・ピッグ」(無料のイベント会場や宿泊場所を兼ねる開かれた場)を完成させたりも。
そのかたわら執筆された『モロトフ・カクテルをガンディーと』は、もはやお金が主題ではない。新時代の3つのR「レジスト(抵抗)、レボルト(反逆)、リワイルド(再野生化)」(よく言われるゴミ減量の3R「リデュース、リユース、リサイクル」のもじり)をかかげた〈暴力〉論である。ちなみに、モロトフ・カクテルとは火炎瓶の意。
彼いわく、現在の環境保護運動、政治運動、社会運動の大半は、資本主義体制の枠内での状況改善をめざすにとどまっており、非暴力平和主義にこだわるあまり、自己防衛にもとづく正当な実力行使さえも「暴力」と呼んで排除している。しかし、日常に浸透した〈企業―国家〉連合体のすさまじい暴力には、改良主義的な運動手法のみでは対抗しきれない。真の平和(=機械文明に飼いならされない〈野生の平和〉)の達成をめざすなら、「エコテロリズム」と(誤って)称される実力行使をも含む、多様なアプローチが必要なのだ。運動を分断したがる体制に抗して連帯しなければならない、と。
なかなか挑発的で誤解を招きそうな主張だし、ましてや1冊分の議論をここで数行にまとめるのは無理がある。けれども、ボイルの過去の著作と至近距離で向きあってきた立場から見て、地球上のありとあらゆる生命を尊重する彼の無銭哲学を突きつめていくと、そのような結論に到達することに不思議はない。
米軍基地、原発、ヘイトスピーチ等々、日ごろのやりきれないニュースを見聞きするにつけても、日本の読者が「暴力とは何か」をあらためて考える参考にこの本を供したい気持ちがつのる。さいわい、志ある小さな出版社「ころから」が、本書の今日的意義に理解を示し、翻訳権を取得された。
今年はマハトマ・ガンディーの暗殺から70年、そして来年は生誕から150年の節目にあたる。刷りあがった日本語版を手に、ガンディー翁の写真の前で乾杯する日を夢みて、翻訳作業に邁進しよう。

吉田奈緒子(『モロトフ・カクテルをガンディーと』翻訳者)
初出:『scripta 47 | spring 2018』(半農半翻訳な日々 連載第13回)

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