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099「廃仏毀釈」は近代日本最大の過ち、かも知れない

       写真:神仏が共に祀られる医王山神宮寺(Wikimediaより)

 女子大生の寺や宗教への思いから、1995年の「オウム真理教事件」を思い出しました。
 この事件には、名だたる大学の工学部や医学部を卒業した少なからざる若者たちが関与していたことでも世間を驚かせました。

 このとき、やや唐突ながら、明治初年前後の「神仏分離」や「廃仏毀釈」など、新政府の試みが、こうした事件の遠因として作用しているような気がしたものです。

 というのも、
 「古くから日本人が慣れ親しんできた『神さま仏さまご先祖さま』のいずれもが、やっぱり一種の超越的な存在だったのだなあ」
 と思えたからです。

 このことがオウム真理教事件とどう関係するのでしょうか。

 京都の下町育ちのぼくなどは、子供のころから爺さん婆さんの墓に参ったり、氏神さまや各地の神社にお賽銭をあげて拝んだり、仏像見物に出かけた寺で見よう見まねで手を合わせたり……。
 なんとなく「神さま仏さまご先祖さま」とのつきあい方を会得していたように思います。

 が、近代日本の体制は、国家神道を称揚して仏教をおとしめました。
 また、第二次大戦以後は、すべてが近代科学によって解決可能であるかのような考え方が広まりました。

 そんな大学教育で優れた成績を修めた秀才ほど、こうした超越的存在が秘めている力に、かえって無力だったのではないでしょうか。

 考えてもみようではありませんか。
 そんな秀才がオウム真理教の不可思議な教義とその実践がもたらす心身の変化への教祖の教えを、初めて実際に体験させられたとします。
 その驚きに、まるで抵抗を感じることなく洗脳されたとしても不思議はなかったのではないでしょうか。

 すでに触れたように、ぼくは基本的には無神論者です。が、それでも寺や神社に参れば賽銭をあげるし、手を合わせもします。

 そんな矛盾や非合理に平気で心身を預ける余裕が、まっとうな常識を越えた狂信に陥ることから自らを守ってくれているような気がするのです。

 この記事とは余り関係はないのですが、ぼくは、こんなキンドル本を出版しています。
 無論、Kindle Unlimited なら、無料でダウンロードできます。お読みいただけると、大喜びします。
 21世紀になって、好ましいことの少ない日本の現状を、少し別の角度から考えてみるキッカケにならないかと思い、こんな文章をまとめた次第です。


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