106 信心と享楽への欲求を満たす門前市
写真:浅草寺とその参道の仲見世(Wikipediaより)
人は、旅と観光に「聖なる情動」を求めるのでしょう。
といっても、それだけで人が動くわけではありません。当然こうした事情は、神も仏も熟知しておられるのだと思います。
で、寺や神社や教会の周囲には珍しい品物やおいしい食事、面白い芸能を提供する街が成立するのです。
そこでの買い物や見物が今ひとつの楽しみとなるわけです。
たとえば黒色で「雷門」と大書した真っ赤な大提灯の下をくぐります。
すると、観音様をお祀りした浅草寺の本堂まで、両側に多数の商店が軒を並べ、たくさんの人々で賑わっています。
そこでは雷おこしや人形焼き、鼈甲(べっこう)の櫛(くし)や簪(かんざし)、呉服や袋物など、実に多様な品物が買えます。
それらを物色しながら、ぶらぶら歩くのは実に楽しいものです。
こうした商店街は宗教施設の近くにできることが多いのでしょう。どちらもが人を引きつけつつ、互いに集客機能を発揮しあうのです。
が、神や仏がそれ以上の力を発揮することも忘れてはなりません。
そこでは売買、つまりは「財の所有権の移転」が、見知らぬ人同士の間で行なわれるます。と、なかには「ずる」をしようと試みる人もいるでしょう。
それでは片方が困ります。だから、人の力を超越する神や仏が、その危険を排除する罰の力を発揮することが期待されるのです。
このことは洋の東西を問いません。
実際、日本の神社仏閣はじめ、キリスト教会やイスラムのモスクなどの周囲にはまず市が成立し、やがて商店街となる場合が多いからです。
そこを訪れた人は飲み食いも済ませたいと考えます。で、飲食店が軒を並べ、さらに演劇や映画などが楽しめる劇場街が張り付き始めるのです。
浅草では「六区」がその役割を果たしてきたと考えられます。
この記事とは、余り関係がないのですが、ぼくは、こんなキンドル本を出版しています。
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21世紀になって、好ましいことの少ない日本の現状を、少し別の角度から考えてみるキッカケにならないかと思い、こんな本をまとめた次第です。
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