その男、郡浩也 the final
井の中の蛙、クソ大東京へ
〜大学編〜
高校を卒業し、
期待に胸を膨らませて
郡浩也は上京します。
新しい出会い、新しい仲間たち
大学での春色のキャンパスライフ
そして、新しいバレーボール
新しい大学生活は"楽しい"で溢れていました。
そこで僕は出会います。
自分のバレーボールの価値観を変えてくれた男
今後長く付き合うことになる
"細田寛人"という偉大なる男に
(東亜学園高校→日本大学→ジェイテクトstingsアシスタントコーチ→日本大学コーチ)
当時
日本大学バレーボール部は"30年以上"
関東2部に在籍していました。
これがどういう意味を持つか、みなさんわかりますか?
"ぬるま湯"なんですよ。
環境も練習も考え方も何もかもが
頭から足先まで、どっぷりとぬるま湯に浸かっていました。
僕程度の選手が1人や2人入ったところで
その古い体質は変わることはなく、
メンツは悪くないのに、
僕の大学1年目は
春リーグが2部6位、秋リーグが2部5位という結果でした。
僕は1年春からずっと試合に出させて貰って
最優秀新人賞の個人賞を貰います。
余談ですが、その年の
関東1部の新人賞は石川祐希
関東2部の新人賞は郡浩也です😏😏😏
順調とはいえないものの、
大学生1年目は
まずまずの大学生活を過ごしていたと思います。
細田寛人による『革命』
日本大学の大いなる転換期
細田さんが3年生
僕が2年生になったタイミングで
細田さんはチームに革命を起こします。
細田さんは言いました。
『このままじゃ時間がもったいない。真剣に1部を目指そう』
口だけじゃないのが、僕が細田さんを尊敬しているひとつの理由でもあります。
細田さんは、チーム全体の
これまであった練習内容や取り組み方、意識まで
全てを変えました。
ヘラヘラとぬるかった練習は形を変え、
「ボールを落としたら殺される」
ぐらいまで緊張感のある練習に昇華させました。
チーム全員、練習についていくのに必死でした。
最上級生でもキャプテンでもない細田さんは
どれほどの覚悟を持っていたのだろう
僕ごときじゃ想像もつきません。
練習の取り組みが変わり、僕らはみるみる力をつけていきます。
その年(細田:3年、郡:2年)の春リーグは
2部2位になり、入れ替え戦に進みました。
入れ替え戦は専修大学にフルセットの末、敗れ
悲願の1部昇格とはなりませんでした。
(このときの僕と小森のマッチアップは今考えたらアツイ)
直後の秋リーグに
再び2部2位になり、入れ替え戦に進みました。
入れ替え戦で法政大学をフルセットの末破り、
僕たち日本大学は悲願の1部昇格を成し遂げました。
この日ほど嬉しかった日はありません。
僕の人生で一番印象に残っている試合は?
と聞かれれば100%この試合と答えます。
まさにチーム全員で勝ち取った1部昇格でした。
今でもこのときの日大メンバーは特別で
めちゃくちゃ仲良しです。
何かあったら先輩後輩関係なく集まります。
細田さんのことだけ書きましたけど、
石井キャプテンやおだこうの存在も大きかったです。
このときの意思は受け継がれ
8年以上たった今でも
日本大学は1部に君臨し続けています。
関東1部での戦い
そして舞台は変わり、夢のVリーガーへ
関東1部に上がってからは、
あんまり覚えてないんですよね😇
早稲田つえー。筑波つえー。中大つえー。
石川つえー。
ぐらいしか覚えてないです。
とにかく必死でした。
僕たちは下の方の入れ替え戦に行くこともなく、
関東1部の常連になっていきます。
僕たちが4年の秋リーグは
5位にまでなりました🖐️
僕は大学4年間で
○新人賞
○ベストスコアラー賞4回(2部で1回、1部で3回)
を貰います。
これも仲間たちのおかげだと思ってます。
僕はありがたいことに
複数のV1のチームからオファーを貰います。
そこからは皆さん知っているとおり
僕はジェイテクトSTINGSに入団します。
何故ジェイテクトにしたのかは
また別の機会に書こうかな。
終わりなき旅
以上で僕の自己紹介を終わります。
楽しんで頂けましたか?
僕は楽しみながら書いてました😄
読んで頂きありがとうございました!!!!
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