ヒーローと生殺与奪の権利―仮面ライダーカブト論―
序論
君たちは「仮面ライダーカブト」という作品をどのように評価しているだろうか。インターネット上で観測できる意見だと、「キャラ造形やデザインなど素材は最高だけど脚本は微妙」「仮面ライダーというよりは料理番組」というような評価が下されやすい、むしろそのような評価が浸透しすぎてしまっている作品である。
…本当にそうだろうか??各エピソードを挙げて反論するならば、本物の太陽の輝きによって完璧だった人生が狂っていく男の末路を描いた矢車ザビー編(7~9話)は演出や台詞回し等どこをとっても一級品のエピソードだし、加賀美が自立し自分だけの力を得るための成長譚としての4話→10話→11・12話→21・22話の流れも入念である。また、後半のエピソードも風間大介が「男」を見せる間宮麗奈編(39・40話)、シリアスな総力戦を描きつつ天道と加賀美の強固な絆を示したひより救出編(43・44話)、神代剣の決意とそれがもたらす宿命を残酷なままに描いたさらば剣!!編(45・46話)など名作ぞろいである。
また、「仮面ライダーカブト」という年間作品において一貫して描かれている思想としては、その行いや出自によって赦されるワームと赦されないワームが存在することであり、また、その線引きを決める、生殺与奪の権利を握るものとして仮面ライダーが存在していることが挙げられる。本論ではこの思想を深堀りすることで「仮面ライダーカブト」の素晴らしさについて語っていきたい。
赦されるワームと赦されないワーム
「仮面ライダーカブト」には赦されるワームと赦されないワームが存在する。作中において赦されたものは、日下部ひより、田所修一らが挙げられる。ひよりは妊娠中だった天道の母を殺したネイティブから生まれたため、自らの意志で人間を殺して擬態したわけではなく、また本編中でも人間を殺めたことは一度もなかった。また、田所も誕生経緯こそは不明だが、作中で人間を傷つけたことは一度もなく、それどころか人類の平和、人類との共存のために戦う姿が幾度となく見られた。
そんな赦されるワーム=ひよりとその生殺与奪を握るもの=天道の問答は以下の通りである。
一方、仮面ライダーによって倒されるワームも無数に存在する。奴らは人間を殺し、その人間に擬態し成り代わることで、その人間の尊厳をも蹂躙する存在なのである。
ワームを赦すか赦さないか、仮面ライダーがその判断を下した象徴的なエピソードとして、第15・16話が挙げられる。名外科医の若林龍宏に擬態したフォルミカアルビュスワームは、若林として多くの患者を救う一方、ワームとして人知れず人間を襲い続けていた。
いくら人間に有益な行動を積もうが、その裏で人間を襲い続けるならば仮面ライダーは容赦しない。人間だろうがワームだろうが、はたまたネイティブだろうが関係ない。アメンボから人間まで、地球上のありとあらゆる生き物を守るため。彼らの希望や夢を守るため、仮面ライダーカブトは戦うのだ。
生殺与奪の権利の執行者としての線引きと決断
ここからは、ワームの生殺与奪を決める存在として、それぞれの仮面ライダーが向き合ってきた責任や試練について綴っていく。
①加賀美新の場合
毎朝鏡の前で顔を洗う男・加賀美新=仮面ライダーガタック。彼は仮面ライダーの力を得る前にも、自らの弟・亮に擬態したワームに対する生殺与奪の権利を与えられた。
ワームは擬態した人間の記憶を引き継ぐ。しかし、そのワームによって、愛する弟の人生が蹂躙され続ける。そのジレンマの中で、まだ戦う力を持たなかった加賀美はワームを殺してもらうようカブトに懇願した。弟殺しの罪を被ることで、弟の尊厳を守ったのだ。
また、仮面ライダーガタックの力を得た後の初陣がタランテスワーム パープラ=マコトという、弟のように可愛がっていた存在であることも皮肉的である。
加賀美亮に擬態したベルクリケタスワーム同様、健気な少年の姿を利用し、加賀美の心を揺さぶる。しかし、仮面ライダーガタックは赦さない。
ここで声高に宣言される「人と人との信頼関係をも利用し、人間に危害を加える卑劣な存在」こそが、仮面ライダーガタックが倒す相手の線引きであり、生殺与奪の権利の行使対象である。
また、この戦闘の後、タランテスワームは加賀美を爆風から守る行動に出る。加賀美の優しさがワーム自身に影響を与えたのか、擬態元のマコトの自我が表出したのかは定かではないが、ワームの中に人間の心が芽生える可能性が示唆され、ニューヒーローの誕生特別編は幕を閉じる。
②風間大介の場合
花から花へと渡る風・風間大介=仮面ライダードレイク。自由気ままに生きる彼が直面した仮面ライダーとしての試練こそ、対ウカワーム戦である。
ワームとしての記憶を失った間宮麗奈に惚れてしまう大介。
だがその惚れた相手こそ間宮麗奈を殺したワームそのものであり、間宮の姿で多くの悪事を働いてきた存在である。たとえ大介が赦しても、ウカワームの中の間宮麗奈の意志は自らを赦さなかった。
その予感通り、ウカワームとしての意識が復活し、彼女はゴンに襲い掛かる。大介はゴンを守るため、そして間宮との約束を守るため、ウカワームにとどめを刺す。
この場面において、悲痛な表情でウカワームに”変身”した間宮からわかるように、どこまでが彼女の意志で、ワームの意志だったのかは定かでない。しかし、大介は仮面ライダーとして、人間・間宮麗奈の尊厳を守り抜いたのだ。
③矢車想の場合
完全調和の末路・矢車想=仮面ライダーキックホッパー。彼が引導を渡した相手こそ、影山瞬=仮面ライダーパンチホッパーである。
ネイティブ化ネックレスの影響により、急速にネイティブの姿へと変貌してしまった影山。影山は人間の姿でなくなってしまった自らに絶望し、介錯を申し入れる。無論、影山はネイティブとして人に危害を加えたわけでもなく、死して償うほどの悪事を働いたこともない。ただ己自身を赦すことができなかったのだ。
矢車は共に地獄を彷徨ってきた義弟の望みを聞き入れ、慟哭とともに彼にとどめを刺す。
大介や矢車のように、仮面ライダー自身がワームを赦しても、ワームとなってしまった自らを赦せない人間がいるならば、その望みを叶えなければならない。それがどれだけかけがえのない相手だろうとも。彼らの望みを叶えられるのは、ワームの生殺与奪の権利を握っている仮面ライダーだけだからである。
④神代剣の場合
神に代わって剣を振るう男・神代剣=仮面ライダーサソード。彼の望みはただ一つ、すべてのワームを倒すこと。その線引きに例外はない。”すべてのワーム”に己すら含んでいたとしても…
自らの正体がスコルピオワームであり、最愛の姉を、そして自分自身を殺した張本人であることを悟った剣は、ワームの指導者としてワームを一か所に集結させる。ZECTとの攻防の末、自らの悲願であったワームの撃滅に成功した。そして、”すべてのワーム”を倒すという望みを叶えるため、自らもまた死を望んだ。
加賀美や岬が語った通り、剣は人間の心を持ち、人間として生き、人間のために戦うことができる。しかし、姉や自分自身を、人間を殺めてきた自らの過ちを、人間である彼自身が赦さなかったのだ。
同族争いの末、自己否定の境地にまで達した彼こそ、紛れもない「仮面ライダー」である。
また、ワームとして爆散したように見えたが、邸宅にて人間の姿でじいやに看取られる剣。思えば間宮麗奈も、影山瞬も最期は人間の姿だった。それは、自らの望みを果たし、人間としての尊厳を守り切った証なのかもしれない。
⑤天道総司の場合
天の道を征き、総てを司る男・天道総司=仮面ライダーカブト。彼はワームであるひよりを生かすため、「人を殺め、小さな希望や夢さえも踏みにじる奴らを倒す」という線引きをし、ワームの生殺与奪の権利を握ってきた。そんな彼が引いた線引きを踏み越えてしまった相手こそが、スコルピオワーム=神代剣である。
人間のように日常を生き、加賀美と奇妙な友情を築いてきた神代剣の姿は、加賀美の線引きである「人と人との信頼関係をも利用し、人間に危害を加える卑劣な存在」には当てはまらない。いくら人間殺害の前科があろうとも、加賀美は自らの線引きの前に、非情に徹することができないのだ。
その一方で、天道が掲げる「人を殺め、小さな希望や夢さえも踏みにじる奴らを倒す」という線引きは確実に侵害している。その線引きを超えてしまえば、どんな相手だろうと例外はない。
そして、天道は自らが定めた線引きと、人間・神代剣の意志に則り、スコルピオワームに引導を渡した。彼を倒す理由は揃っていても、一度は躊躇してしまう姿に、天道のジレンマを感じる。
「人を殺め、小さな希望や夢さえも踏みにじる奴らを倒す」という線引きは、ひよりを守るという、ある意味では天道個人のエゴを反映したものでもある。この自らの線引きを超えてしまった仲間を殺すことで、天道も仮面ライダーとしての責任と向き合ったのだ。
おわりに
ここまで、「赦されるワームと赦されないワーム」「生殺与奪の権利の執行者としての線引きと決断」という二つの軸で「仮面ライダーカブト」を読み解いてきた。この論を通じて私が伝えたいことはただ一つ。
真面目に向き合う「仮面ライダーカブト」は、面白い。
「カブト」の仮面ライダーたちは、みな自らの哲学に従った線引き≒正義を持ち、侵略者と戦っている。彼らが持つヒーロー性に気づいたとき、「仮面ライダーカブト」は「料理番組」から「ヒーロー番組」に変身するだろう。
最後に、私が一番好きな天道語録を載せることで、本論の締めくくりとしたい。
天の道を往き、総てを司る!!
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