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期待するから怒れるのだというが、期待してくれる人がいるから商売は成り立つのではないか

買い物をしているとコンビニですら店員に怒っている人がいます。

人は身の危険を感じると防衛反応として怒りますし、期待を裏切られても怒ります。

人に期待すると裏切られたときに怒れますよ、人を信用すると裏切られたと感じて怒れますよと最近よく言われます。

1面においてこれは真実です。

確かに期待するから裏切られたと怒るのです。

しかし、一方で期待があるから行動することもあります。

新型のスマホは機能が良くなっていると期待します。おしゃれな服は、自分をよく見せてくれると期待します。素晴らしい未来に対して投資する人だっています。

だから買うのだと思います。

つまり、取引とは多くの場合、期待に対してお金を払います。払うお金より得られる便益が大きいだろうと期待します。

純粋な商売における信用とは、詰まるところ自分を儲けさせてくれるという期待を裏切らないことですし、そこまで考えていなくても、より便利になる、より楽になるという期待に突き動かされて、人は取引をするのだと思います。

さらに言えば、取引に限らず、人との約束事はそうではないかと思います。一緒にいると楽しいと期待できるから遊ぶ、会う、そしてまた繰り返す。

そう考えると、期待をもたないということは酷く寂しく活力に乏しい後ろ向きな話に思えてきます。

では、このバランスをどうとるか?

結局は期待値のコントロールという程度の問題に落ち着きます。

このコントロールの主体は、まずは自分、次に相手です。

新しいおもちゃももらってワクワクして箱を開けたが、思ったほどのものではなく、すぐに飽きてしまう。この場合、おもちゃを買い与えた人に期待値をコントロールする余地はあるでしょうか?

何かを買うときに期待に胸を膨らませるのは当然です。しかし、営業トークを100%信じたとしたら、それは誰が期待値のコントロールを誤ったことになるのでしょうか?

詐欺師は人の期待値をコントロールして儲けます。

逆に堅実な人は絶対、確実と言った言葉を避けて、期待値をコントロールします。

期待値のコントロールに最初に責任を持つべきなのは自分です。その行動の報いを最初に受けるのが自分だからです。

買ってみて、まあ、こんなもんかと思う。そういうことだと思います。

しかし、限度があるにしても、他人の期待値をむやみに上げるべきではありません。それもまた自分に跳ね返ってきます。

必ず、なぜ裏切ったのだと言われます。あるいは、ただ黙って関係を終わりにされます。

期待のコントロール、心の平穏と物理的な豊かさには、切っても切れない関係だと思います。

期待するから怒れるのだというが、期待してくれる人がいるから商売は成り立つのではないでしようか。

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