書評のススメ

こんにちは。

與那覇開です。 

今日の記事は、「書評のススメ」と題し、書評の効用を説き、少しでも書評に興味をもつひとを増やして、書評文化の普及を目指さんとするものであります。

私はここ5年ぐらい書評ブログをやっており、現在に至るまで495冊もの本を書評しました。ちなみに私は1万冊書評を目指しているのですが、このままだと130歳ぐらいまで生きなければならない計算になります...。さて、ものを書くとは本当にめんどくさいことです。必死で練り上げた文章であっても、まともに読まれることはほとんどありません。しかし、たとえそうであっても私が相変わらず書き続けているのは、書評によって得られるものがあまりにも大きいと確信しているからです。では、その書評は一体、何をもたらしてくれるのか。このことについて述べていきたいと思います。

書くからこそ、書きたいことが生まれる

 たとえ面白い本を読んだとしても、自分には書評するほどの知見もないし、しっかりとした感想もないという反応が一般的でしょう。しかし、書きたいことは、往々にして書く行為の結果としてついてくるものです。私自身、いつも読了後、どうやって書評したものかと頭を抱えています。漠然とした感想はあっても、なかなか言語化までは上手くたどり着きません。では、どうすればいいのかというと、いろいろ方法があるのですが、最良の方法はひとまず書いてみることです。書くことで朧げだった自分の「書きたいこと」が見えてきます。「とりあえずやってみろ」というのは何も精神論ではなくて、真理です。デカルト以来、理性が信奉され肉体はお荷物とされてきたわけですが、私は身体が思考を促すことも充分にあると思ってます。たとえば、数学の問題でも暗算だけで答えを導けるのは足し算引き算掛け算くらいでしょう。それ以外は式を書くという手の運動が決定的に重要になってくる。身体なき思考というのはもろいものです。まず、書く行為から始めるのはそのためです。

読みの質が変わってくる

 私は現在、韓国ドラマ『SKYキャッスル』にハマっています。そのドラマの中で富裕層家族による読書会のシーンがしばしば登場します。そこで会の主催者が「ただの読書と意見を言おうと思ってする読書は違う」という旨の発言があります。これはその通りだと思います。今は行っていませんが、私も地元沖縄にいたときは月2回の読書会に参加していました。読書会では読んだ本の紹介、感想を10分ほど喋るわけですが、私はこうしたアウトプットを通して自分の読書の質があきらかに変わっていったのを感じました。これは客観的に読めるようになったという受験現代文的な話とは全く違います。本のなかにある世界を自分の感性を通して言語化することで自分が何を評価し何に関心があるのかが改めて分かってくるということです。そうした自分の価値軸をいったん整理して本の世界にまた舞い戻るとき、対象の切り口が見つかったり、自分にとって論じたいテーマを抽出できるのです。書評もまた同じで、書くことで読みが変わってくる。「書く」と「読む」はこうやって連動しています。

外部に知の参照点をつくる
 
何か気になる問題があるとき、ああこれ、丸山眞男が面白いこと言ってたんだけどなんだったっけ、ということがよくあります。人間の記憶は面白いもので発言の内容はきれいさっぱり忘れても、その発言に何かしらの真理が含まれてるという直感のようなものだけは脳内に生き続きます。そして直感とその出典を紐づけることができれば、丸山の発言の内容を覚えていなくても何も困りません。かつて筒井康隆は「教養とは、自分がいま知りたいことがどの本に書かれてあるかを知っていること」と定義していました(出典忘れた)。私も全面的にこの考えに賛成です。ちなみに本を買う意味もここにあります。咄嗟に浮かんだ疑問と原典確認までの時間はできるだけタイムラグがないほうがいい。図書館に行くまで確認できないということは、そのあいだ思考が止まってしまうということでもあります。教養は、自分の中で完結しなくてもいいというのが私の意見です。むしろ現代の情報化社会においては、いかに個人がたくさんの知識を詰め込んでいるかよりも、外部にある知の世界への多様なアクセスを確保していることの方が重要だと思います。誰が何についてどう言っていたかという言説世界をスムーズに渡り歩ける回路を作っておいた方がいい。そういう意味で書評は知の参照点として機能すると私は思います。特にアメブロやnoteなどに書評記事を上げておけば、知の参照点が時系列で可視化されます。私はかれこれ5年ほど書評を中心としたブログを書き続けていますが、この目的は良書を紹介したいというよりも、自分の知の参照点を外部に構築したいという動機からでした。

自分を発見する

先程、丸山眞男はどうように考えたのだろうと言いましたが、もう一つ、過去の自分はどのように考えたっけと思うことはないでしょうか? 人間は読んだ本の内容はおろか、自分が考えたことさえ簡単に忘れてしまうものです。自分の思索の跡が残らないこと、このことはもっと自覚的になった方がいいと思います。私は過去の自分の思索に助けられることがよくあります。私は自分のブログの熱心な読者なのですが、過去のブログを読むとなかなか鋭いことが書いてあって、今の自分は馬鹿になったのではないかと恐怖を抱くこともなくはありません。私はかなり乱読タイプで、文学、社会学、政治学、哲学、雑学、エッセイ…いろいろ読むわけですが、断片的に見えるこれらの書評も自分の問題意識が意外と一本の糸で繋がっていることが過去記事から見えてきます。また、自分はこういうことを考える人間だったのかと意外な一面を発見することもあります。つまり、私たちは思うほど自分のことを知らない。そういうことに気づいたのも書評をやり始めてからでした。よく自分探しなどと言いますが、探すべき自分のあり様は過去の自分の言葉に埋まっているものです。

正直言って、書評はめんどくさいです。年間100冊を読了するひとはそんなに珍しくもありませんが、年間100冊を書評するひとは滅多にいないでしょう。しかし、めんどくさいめんどくさいと言いつつ、やめられないのは、書評を通して世の中の出来事やひとの考え、そして自分の新たな一面を発見することが楽しいからです。というわけで、あなたもお気に入りの一冊から書評を始めてみませんか?

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