韓国の読解力事情

私は国語講師として働いて9年目になりますが、この業界にいると、しばしば読解力論争に巻き込まれます。今の生徒は本を読めなくなっているのではないか、読解力をつけるためには何をしたらいいか、読書で読解力は本当に伸びるのか等々です。私がこうした議論に少し不満があるのは、「では、外国ではどうなってるのか?」という視点がほぼ皆無なことです。無論、教育制度や言語構造が違う外国の議論をそのまま日本に導入しても参考にならない場合もあると思います。しかし、外国の教育事情を知ることは内輪だけの議論では見えてこなかった意外な発見があるかもしれません。そういうわけで、今日は韓国の教育における読解力事情を紹介したいと思います。日本では、2018年に新井紀子先生の『AI   vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報者)によって、中高生の読解力が深刻だということが社会問題になりました。実は韓国も現在進行形で同じ問題に直面しているようです。韓国人の知人から教えてもらった以下の三つのネット記事を紹介しながら、韓国の読解力事情を見ていきたいと思います。

①MZ世代の読解力低下 深刻な水準「シビックニュース」2021年6月3日              ②『顔が咲く』に血まみれの絵「オーマイニュース」2020年1月31日              
③今日は授業は金曜日の授業?「マネートゥデイ」2021年9月14日

深刻な読解力の低下

①の記事は、次のような韓国の読解力事情を紹介しています。まずOECD(経済協力開発機構)の韓国人の実質識字率は75パーセントという調査を紹介した後で、MZ世代(1990年初頭に生まれた世代)の読解力がより深刻だと若者の読解力低下を問題視しています。韓国教育放送公社EBSが中学三年生を対象に行った読解力調査によれば、27パーセントの学生が適正の水準に達しておらず、実に11パーセントの学生が初等学校レベルの読解力しかないという結果だったそうです。まさに「教科書が読めない子供たち」というわけです。②の記事も見ていきましょう。この記事でも、韓国の学生の読解力低下を嘆いています。ここでは、国家生涯教育振興院という機関が行なった調査結果が紹介されています。その調査結果によれば、韓国の成人人口の22パーセントが、文字の読み書きは一通り可能ではあるが、複雑な文章の内容までは理解できない水準にあるといいます。これは①の記事では見たOECDの調査結果と符号していますね。その後、記事では学校現場の取材に基づいた学生の読解力の低下がいくつかの具体例とともに書かれています。さて、最後に③の記事も見てみましょう。この記事ではPISA読解調査の結果が紹介されています。15歳の学生を対象したPISA読解力調査において、前回の調査よりも大幅にスコアを落としたことが伝えられています。なかでも事実と意見を区分する能力などが、韓国はOECD諸国で最下位を記録したのだそうです。また、②の記事で見た国家生涯教育振興院による調査結果についてもここで触れられています。

原因は何なのか

さて、日本だけでなく韓国もまた学生の深刻な読解力の低下に悩まされていることが分かりました。「教科書が読めない子供たち」というのは何も日本だけの問題ではなかったのですね。ここで気になるのは、読解力低下の原因です。これは各記事でいろいろと読解力低下の原因が推測されています。まず、①の記事では、動画サービスの発達が原因ではないかと言っています。スマホやYouTubeへの依存が学生の学ぶ力を低下させているという主張です。韓国のMZ世代もまたあまりにも動画サービスに馴れきっているので、情報を得ようとするときは本よりも動画に頼ろうとする。その結果、本をだんだん読まなくなり、読解力は低下する。おまけにその動画も10分以上の動画は忍耐力がなくて見れない若者が多い。読書をしないだけでなく、集中力や忍耐力もない。これでは著者の主張を丹念に追っていく読書など、到底できない。活字離れ、集中力の低下、これが読解力低下の原因ではないか。次に、②の記事で指摘されているのは、スマホです。子どもたちからすればスマホゲームの方が本を読むよりも圧倒的に面白い。スマホゲームばかりして全く、あるいはほとんど本を読まない。さきほどの集中力の問題とも関連しますが、子どもたちには本を読む訓練が徹底的に足りないのだと、この記事は書いています。③の記事には、ちょっと面白い視点があります。それは、外国語中心の教育が韓国語の読解力を低めているのだという指摘です。この外国語中心の教育というのがこの記事では説明が足りなくてよく分からないのですが、これはおそらく英語教育のことでしょう。海外留学が盛んな韓国では、小学生でも留学する子がいます。また留学に必要な大学進学適性試験対策の予備校が乱立しています。対策する試験の数も多く、韓国の家庭では英語のために途方もない金を投資しています(1)。英語の勉強漬けで母国語を洗練させることが疎かになっているのではないか。こういう問題認識だと思っていいでしょう。

読解力=語彙力

三つの記事を読んで、個人的に大変興味深かったのは、いずれの記事においても、読解力の低下=語彙不足の問題として韓国では捉えられていることです。つまり、読解力がないということは、言葉を知らないということなのだ、というわけです。②の記事の見出しで書かれている「『顔が咲く』に血まみれの絵」('얼굴이 피다'에 피범벅 그림)というのは、ちょっと韓国語を勉強してる人じゃないと意味が分かりづらいと思うのですが、つまり、とある学生が顔色が良いという意味の慣用的表現である얼굴이 피다(顔が咲く)を知らないばかりに、피(血)だと間違って解釈してしまったということなのです。要は慣用句を知らないということなのですが、日本語の例で言うとと「水臭い」という言葉を知らない学生が、「水が臭いってどういうことですか?」と聞くような場合を思い浮かべてもらえたら分かりやすいと思います。「『水が臭い』ってどういうことですか?」と尋ねる学生たちが、はたして教科書が読めるのか、本が読めるのか、そんな学生が授業についてこれるのか、韓国の三つの記事はこういう問題意識を持っています。③の記事もまた、금일(今日)という言葉を知らなかった学生の話です。以上、韓国の記事は語彙の重要性を再認識させてくれるものでした。ところで、冒頭でも取り上げた新井紀子先生の本は、日本で大変話題になりましたが、全体を通して語彙力も読解力の重要な要素であるという認識が希薄なように見えます。新井先生の場合、読解力が足りないのは、語の係り受け、同義文判定といった技術的な能力が身についていないからなのだ、という考えのように見受けられます。実際、新井先生の本の228ページを見ると、独自の読解力調査がまとめられているのですが、その中で「通塾の有無と読解能力値は無関係」、「読書の好き嫌い、科目の得意不得意、一日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には相関はない」などと独自の読解力調査の結果を列挙しています。しかし、ここには語彙が読解力にもたらす影響についての報告は一例もありません。ざっくり言うと、韓国の記事=語彙が重要、新井先生=読解技術が重要というまとめになるかと思います。

やはり読書しかない

さて、私はあまり公教育を知らないので、市場教育に限った話をしますと、日本の市場教育である塾や予備校では読解力の問題を語彙ではなく、技術の問題として語る傾向にあるように思います。もちろん、語彙を重視していない先生なんていないはずですし、語彙力増強のためにいろいろな試みをしてらっしゃる先生方も多いとは思いますが、一方で論理的読解法なるものを絶対視して、文章を単に記号操作のように扱って読むといった参考書がベストセラーになっているのも事実です。中には読書は特にしなくてもよいといった言説もあります(諸外国にもあるのか?)。逆に、韓国の記事にあるように、基本的な語彙もない生徒に何をどう教えればいいのだと突き放す感覚はあまりないように思います。語彙不足は高い読解技術で補えばいいと考えているからでしょうか。とはいえ、評論文を読むためにはどうしたってそれなりの抽象的な語彙を身につけておく必要があります。基本的な語彙もない学生に「接続詞を意識して読め」「傍線部箇所を分割して…」などと教えても効果は薄いのではないでしょうか。もう一度、語彙の重要性を再認識すべきだと私は韓国の記事を読んで感じました。そして、豊かな語彙を身につけるためには、知らない言葉は辞書で調べるということも大事ですが、やはり読書をするしかないのではないか。私は普段の読書ではあまり辞書を使いません。知らない言葉が出てきても、前後の文脈から「だいたいこんな意味だな」って感じで意味を画定させて読み進めていきます。おそらく、ほとんど言葉の習得はこうような推測→画定の蓄積の上になされているでしょう。この積み上げられてきたものの総合力によってこそ、豊かな語彙は獲得できると思います。そのためには、やはり読書しかないと思います。


(1)春木育美『韓国社会の現在』中公新書に詳しい。

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