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私は私のために笑う。

前回のnoteに書いた「いじめを認めなければ、まずい対応をしたこともノーカウント理論」と同じかそれ以上の不条理として「その子が笑ってさえいれば万事解決理論」というものが、悲しいかな存在する。一ミリも笑えなくなったらそれこそ大問題だろうという話なのだけれど、笑顔が観測されたらその件はもう「めでたしめでたし」という超理論で、全部なかったことにされるのだ。当時の担任が教育委員会に提出した「作文」にも「けいこさんが笑っていたのでこの子は強い子だと思いました」としゃあしゃあと書かれていたし、泣けば泣いたで「泣けばいいってもんじゃないぞ」怒ったら怒ったで「いちいちうるせえんだよ」という罵声が飛んでくるので、じゃあどうすればいいのだと。こういう状況が小学校に通っている間中ずっと続いていたためか、私は「笑えばすべてなかったことにされる」「明るい声を出せば立ち直ったことにされる」という強迫観念に取りつかれてしまい、かといって悲壮感に流されるにはのほほんとした性格が過ぎたため、結局「楽しい」という感情だけをひたすらセーブするようになっていった。もうその環境から離れて四半世紀がたつのだけれど、今でも推しのライブが楽しかったとか、応援しているチームが劇的に勝ったとか、そういうプラスに感情が動いたときほど、反動の罪悪感でどん底まで落ちてしまうという、面倒すぎる体質に定期的に悩まされている。

いじめっ子の話を「にらめっこ」と同じ原理で片づける。相手が本気かどうかはともかく、正気であることに変わりはないので、笑うしかないなら笑い飛ばせという対応が使えない。笑顔を見せれば見せるだけ、相手に都合よく解釈されるだけなのだ。そして、気づけばなかったことになっている、その繰り返し。不思議なもので、人間は笑えなくなると、同じぐらい泣けなくなる。だから「泣き虫のけいこちゃん」が泣かなくなったことだけを取り上げて「大人になったわね」としみじみ言われることもあったけれど、こういう時の愛想笑いにしか私の笑顔は歓迎されていないことに、ただただ打ちのめされた。そもそも笑顔と友達は自然になるもので、作るものではないだろう。偉い人にはそれがわからんのです。

年末の「笑ってはいけない」で、最終的に一番多くケツバットを食らっているのは、いつだって松ちゃんだ。笑わせるのが好きな人は、笑うことも好きなのだろう。同じネタやヒトを延々引っ張ることなく、絶妙のタイミングで発する一言でどかんと笑いを取っていくあの瞬発力を見るたびに、笑いとはこうであってほしいなと思うのだ。笑顔はうやむやにするためにあるんじゃない、幸せになるためにあるんだよ。

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