マイ宇宙と日常

子どもたちのサンタさんへの手紙を読み、ここに平和があることを確信する年の瀬。

予想だにしなかった角度から出会いがあり、一か月以上「普通」について考えている日々だった。
僕はいつでも自分の普通と社会の普通の摩擦を感じて生きている。(それはきっと僕に限らず誰でもそうなのだと思っているのだけれども、他人のことはわからないから断言しない)
僕はこの自分の中の普通を「マイ宇宙」と認識している。僕はこのマイ宇宙がなによりも大切で愛おしい。ただマイ宇宙の中だけでは生きていけないので、外宇宙と高い頻度で隣接し、やり取りをし、貿易をして生きている。その度に言語の違いや思考の違い、思想の違いや輪郭の違いに驚き、手を取り合ったり、距離を置いたりしながらうまく付き合おうとする。結果としてうまくやれたりやれなかったりする。ただその刺激は僕を変化に導く。マイ宇宙の中心から「変わりたい」と思い、ぐんぐんと膨張していく時、僕はとても嬉しい気持ちになり、この膨張をもっともっとと求めて膨張は加速していく。ただマイ宇宙の外から「変わるように」引っ張られてぐいぐいと広げられる時がある。マイ宇宙は広がることを望んでいるので、「変わっていく」感覚が心地いい時もある。それでも引っ張られている箇所には常に負担がかかっていて、伸び率の限界がくるとせっかく広がった部分も含めて千切れてしまったりする。その都度修復はするのだけれどもマイ宇宙を一度縮めて修復に集中する必要があって、なかなか骨が折れる。
そういう内外の意思による変化、膨張、損失、修復の一連の流れは僕の中での「普通」でその普通を積み重ねていくことが「日常」だと思う。

来年に向けて刻々と時間は迫ってきている。毎年年末に思う。クリスマスだって大晦日だって正月だってただの一日、日常の日々の延長線上であるはずなのにどうしてこんなにソワソワしてしまうのだろうかと。ただの日常として過ごせないものかと。それでもこうして年末だし考えを文章にしておこうなんて思って言葉を考えている僕はやはり年末年始に特別感を抱いてしまっている。それが良いとかそれが悪いとかいうことではなく、特別な日にも重きをおきながら、やっぱり日常の中にある普通の日々を大切にしていきたい。

僕が「ものづくりを日常に」という看板を掲げた理由もそこにある。「特別な人がものづくりをする」「特別な日にものづくりをする」そういうことではないと思っている。ものづくりはいつだって日常の日々の中にあって、誰でもはじめられるのだということ、僕がそうだったように誰の指先からでも作りはじめられることがものづくりの良さなのだと。

言葉があっちこっちにいった気もする、それでもマイ宇宙の中では一貫しているから、もしバラバラなのだとしたらそれはそれで外宇宙との摩擦でバラバラになってしまったのだと言える。

最後にこれからも「不安」からではなく、「愛」からのエネルギーで行動していけると自分を信じて生きていきたい。

2022、年の瀬から膨張の意思を込めて。
それではみなさま良いお年を。
世界が平和になりますように。

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