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『やりたいことをやりたいようにやりたい』というわがままさと『みんなで一緒にいいものを作りたい』という理想を抱えて

現状と理想の狭間で揺れる僕はどこにたどり着くんだろうなぁと漠然と思うことが多々ある。今回のテーマもここにたどり着きたいという確固たる意志がないから、漂って漂っていい具合の場所に着地できたらいいなと思いながら歩み続けている。

さてさて僕がわがままなことは自他ともに認める事実としてあって。僕が僕のテリトリーからあまり出たがらないのは、わがままが許される場所で惰眠をむさぼるように生きていたいからで、このわがままさは「やりたいことをやりたいようにやりたい」という一言に尽きるわけで。まぁなんてわがままなんでしょう。と我がことながら思うのです。
来年度からのフリー宣言に関しても、何かに属していると自分の意志とは別にやらなきゃいけない事とか、納得できないけどやらないとみたいなことが絡んでくるからで、そんな生き方まっぴらだ「僕はやりたいことをやりたいようにやって生きていたいんだ!!」というわがままからきている。
そのわがままさをオブラートでつつみ、毛布でくるみ、毛皮をかぶせて普段は生きているけれども、にじみ出てしまうわがままさ隠せないから、気がつけば極力一人でいろいろなことが完結するように暮らすようになった。

結婚願望がないのもこのあたりが起因になっているんじゃないかなと思う。距離感というのがまた一つのネックで。以前にも書いた気がするけど、距離感が近くなればなるほどに「こうあってほしい」という願いも強くなってしまう。家族なんてまさにそうで、実像よりもあってほしい幻想の姿を相手に見たり、相手の理想に合わせてそうであろうとしたり。まぁそれはさておき、そういうコントロール欲求は距離感が近いと自然と湧いてきてしまう。さらに言えばこのコントロール欲求が湧くがコントロールできない事象なんかがあるとやきもきする。だからこそ人とはある程度の距離を取っておきたい。その距離感を保てるパートナーが見つかればいいよねとかも思うけど距離感をとっている相手とパートナーになってどうするの。とか思ったりもするから結局一人の道を選んでいるのだと思う。

はてさて、じゃあもうこれでOK。完璧。解決。これでいいのだ。と思っているかと言われるとそうでもなくて。
そのわがままさやコントロール欲求に対して課題感は持っているわけで、「ままならないのが人生さ」とローマの休日の中でグレゴリー・ペック扮するジョー•ブリッドレーが言うように、人生はままならないものにあふれているから、わがままさを前面に押し出して生きているといつかは立ち行き行かない状態に追い込まれていく。だからこそままならないもの、アンコントローラブルなものをどれだけ内包できるかというのも今後の人生においてとても重要なポイントになってくる。

わがままさに柔軟性を持たせたり、コントロール欲求を抑えたりする挑戦は取り組んでいくことに必要性を感じている。

僕は草木染めだったり、野焼きだったり、薪割だったり、自然の力に抗わずに彼らの力に寄り添って創造することにその課題への活路を見出していて、ままならないものの代表ともいえるような自然の力が自分のコントロール欲求が打ち砕く瞬間。悔しさと揺らぎ、それをも包み込む自然の奥深さ。それこそがわがままさを超越する鍵なのではないかと思っている。

それらを踏まえたうえでここからがややこしいのだけれども、僕は自身のわがままさを貫きたいと思う反面「人と一緒にいいものを作り上げていきたい」という理想も抱えて生きている。
「1足す1が2にも3にも10にもなるんだ!」という誰かの言葉を結構真剣に大切なものとして抱えている。結局僕は独りで生きていくことができない。僕という存在はどこまで行っても1でしかなくて、2や3や10を創りたいと思っているから、誰かと一緒に何かをしたい。それはこれまでの恋人に対しても思っていたし、プロジェクトに取り組むときに集う仲間たちにも感じている。一人でやるよりみんなでやる方が楽しいよねと思いながら草木染のWSもやっている。そこに嘘偽りはない。どうあがいても一人の限界を超えるには誰かと一緒に作り上げていくしかない。

ただ関わる人が増えれば増えるほど、人との距離が縮まれば縮まるほどやりたいことを「やりたいようにやれなくなる」という葛藤が押し寄せて来る。

そう、つまりは
一人で何かをするということは、やりたいことを「やりたいようにやる」というわがままさにはもってこいだけど、広がりがほとんどなく、人と関わって何かをするということはやりたいことを「やりたいようにできなくなる」という方向に傾きやすい。でもそこには無限の広がりがあり、自分の予測もしなかった角度の気づきや喜びがある。

このバランス。このバランスが難しい。
僕は今そのどちらでもなく、どちらでもある線の上をふらふら歩いている。自分の性分に合わせたわがままな生き方か、無限の広がりを求めた生き方か。
あぁそうか、わがままな僕はどちらかではなく、どちらも選択できるような着地点を模索しているのだとこの記事を書きながら実感した。

そう、そういうことだ。


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