見出し画像

僕が屋久島に移住するまで 〜世間一般でいう「普通」との戦い〜

 平凡な人生、ありふれたレール

 何不自由なく義務教育を修了し、公立のそこそこ良い高校へ進学、可もなく不可もない理系私立大学を卒業し、それなりに大きく世でいう安定した企業に就職し、王道平凡ルートを歩んできた。

 高校では部活動に励み、大した苦労もなく大学入試を通過しそれなりのキャンパスライフそれなりのサークル活動、平凡ではあれど最高に贅沢で幸せな人生である。思えば親との大きな衝突がなかったのは、きっとこのありふれたレールを大きく踏み外すこともそんな勇気もなく、黙々と進んで来たからなのだろう。

 そんな人生、そんなレール、決して嫌ではなかった。このレールから脱してみたらどうなるのだろう。そんなことをふわっと考えてみたりはするけれど、実際に行動を起こすわけでもなく生きていくのだろうと考えていた。あの時までは。


 屋久島との出会い[1回目]「観光」

 唐突だが、屋久島という鹿児島県の南にある島に行ったことがあるだろうか。人口約1万2000人、面積約500㎢、九州最高峰の宮之浦岳や樹齢7200年(諸説有)と言われる縄文杉などが在る、山岳信仰の残る日本屈指の有人離島である。

 過去何回かこの島を訪れているのだが、記念すべき第1回目は大学3年生の夏であった。「大きい杉がある世界遺産の島」程度の認識だったが、1度は行ってみたいと思っていた。そんな折、友人に誘われたので快諾。縄文杉までのトレッキング、レンタカーでの屋久島一周、やくしかの焼肉、あっつい温泉。飛行機から宿、登山靴のレンタルまで全て友人任せだったが、観光地「屋久島」を満喫することができた。

 これが僕と屋久島との出会いである。1度は行ってみたいと考え、2,3泊程度で観光名所を巡って帰る。「観光」として屋久島と出会ったのである。


 突然の転機、人生の分岐点にいるという実感

 初めての屋久島渡航から数年。僕はしがないサラリーマンになっていた。平日は夜遅くまで働き、休日も時には働き、何もない日は何もしないでいるうちに終わっていた。そんな中、転機が訪れた。唐突に。

 無人島2泊3日生活という経験である。ある旅行会社が行っているこのツアーでは、初めましての30人ほどが無人島で2泊3日生活するというもの。助け合わなければ生きていけないので、自然と会話が多くなる、そして気付けばずっと昔から友だちだったのではないかと思うくらい打ち解けている。

 そこでの出会いは衝撃の連続だった。今までの僕の価値観は社会人5年目にして大きな音をたてて崩れた。いつしか「無人島」という非日常体験にどっぷりとはまっていた。そしてこの平凡というレールから脱してみたいと思うようになり、「今、人生の分岐点にいる!」と強く自覚した。

 無人島と出会った翌年から、サラリーマンを続けながら無人島ツアーのボランティアスタッフとしての活動を始めた。スタッフとして参加して僕が受けたこの衝撃をもっと色んな人にも感じてもらいたかった。

 そして初参加から3年が過ぎた頃、僕は運営する会社の代表から声をかけてもらって、人生初の転職をすることになる。


 屋久島との出会い[2回目]「邂逅」

 無人島ツアー会社に入社するにあたり、離職期間中に野外救急法という資格を取得することにした。野外救急法というのは、都市部と違い119番通報してもすぐには救急車が来れない状況下での応急処置を専門とする資格である。

 全国各地で取得のための講習会が開かれており、たまたま目に飛び込んで来たのが、屋久島。屋久島で講習会が実施されていた。離職中だったこともあり旅行がてら受講しに行くことにした。これが僕と屋久島の2回目の出会いである。

 受講者は全員で20名ほどであった。講習会場に着くと急に名前を呼ばれた。しかし初めましての方だった。なぜ名前を知っているんだろうかと訝しがっていると、「島外の子でしょ? 島外からの受講者は君だけで、他はみんな顔見知りなんだよね」と。

 そう、僕以外はみんな屋久島のガイドさんだったのだ。プロたちとともに一緒に勉強をして実習をした経験はとても貴重であったと同時にとても有意義でもあった。

 おかげで屋久島住民、かつガイド業に就く方々と知り合いになれて、屋久島でのガイド業について、離島に移住することについて(ガイドさんの7割は移住者らしい)、リアルな話を聞くことができた。

 これが2回目。まだ繋がってはいないけど、屋久島での生活という新しい可能性と邂逅したのである。


 哲学的に悩む20代後半

 野外救急法を無事取得し、無人島旅行会社に入社した。慣れない営業という仕事に戸惑いながら業務にあたっていた矢先に、新型ウィルスがやってきた。いくら人がいない無人島と言えど影響は大きかった。

 ウィルスの影響もありつつ、ベンチャー企業での営業に慣れることができず、わずか5ヶ月で退職することになった。

 生きるとは何か、働くとは何か、ビジネスとは、意識高い系とは。。人生初めての転職で挫折してしまい思い悩んでいた。一般企業へ就職活動して戻る選択、また新たなベンチャー企業に挑戦する選択、色々な選択肢があると思うが、どれも選ぶことができなかった。

 せっかく挑戦のために飛び出してきたのだからもう少し頑張ってみたい気持ち、ベンチャー起業の厳しさや自分の甘さを痛感して弱気になっている気持ち、正直どうしたら良いかわからなくなっていたのかもしれない。

 やりたいことってなんだろう? やりたいことで働いていくのか、やりたいことは趣味にしてできることで働いていくのか。

 考えてもまとまらない生活を送っていた。


 屋久島との出会い[3回目]「居住(仮)」

 そんな時である、屋久島との出会いがまたもや現れた。野外救急法取得時に知り合いになっていた方から、屋久島の宿でヘルパー(無料で住める代わりに、掃除などお仕事を手伝うスタッフ)を募集していると情報が飛び込んできた。

 2週間だけの予定で応募した。メールや電話でやり取りを行い、正式に受け入れていただけることに。滞在中、午前中は宿の掃除や洗濯などを手伝い、午後は海や川で遊んだ。毎日自炊してスーパーへ買出しに行き、ヘルパー生活と言えど、屋久島に「住む」という目線で滞在することができた。

 気づけば2週間が経とうとしていた。次に来る予定だったスタッフが急きょ来れなくなったという。オーナーからも話があり、予定を伸ばしさらに滞在することに。結局2週間の予定が2ヶ月もの間、屋久島で生活をしていた。

 この2ヶ月間の生活の中で、「移住」という言葉が徐々に脳内を占めるようになっていった。家と仕事、この2つがあれば生きていける。うっすらと気にしながら生活していた。

 この後一度実家に帰ることになるのだが、さらに考えが膨らんでいく。


 世間一般でいう「普通」との戦い

 屋久島へ移住してみたい。でもきっとこの気持ちは、世間一般でいう「普通」とはかけ離れている。もちろん移住している方はたくさんいるし、生活だってできている。けども「普通」ではない、と僕は思った。

 じゃあそもそも世間一般でいう「普通」とはなんなのか、「普通」から外れることは何がいけないのか。誰が「お前は普通じゃない」と言うのか。

 移住を意識してからは、この戦いであった。そしてこれは移住しても終わらないのだろう。きっと移住して何かを成し遂げて自分の中で成果をあげて納得して、初めて終わるのだと思う。それともやっぱり一生終わらないのかもしれない。

 安定した大企業に勤めて、好きなことは趣味として休日に嗜み、結婚し奥さんを幸せにして、子どもを育て上げるためにあくせくと働き、気付いたら70歳前になってて、でも立派に育った子どもとお酒を飲んだり、孫に囲まれてご飯食べたり、そんな日常に幸せを感じて、、そんなのがやっぱり「普通」なんじゃないか。

 でもみんなの「普通」と、僕の「普通」は違う、とも思う。これからも戦ってみよう。この戦いは勝ち負けではない。いかに納得した結果を残せるかだと思うから。


 最後の壁

 2ヶ月間の屋久島仮生活が終わり実家に帰って来た。しかし変わらず就職活動をすることはできなかった。それどころかさらに「移住」の2文字が大きくなっていく。

 そんな中、屋久島町が移住者向けの体験住宅の入居者を募集し始めた。これだ! と思い、小さな欄に小さな字でぎゅうぎゅうに屋久島生活への思いを綴り応募した。なぜか当選するという根拠のない自信があった。

 結果を待つ間に親へ屋久島で仕事を探すと伝えた。当たり前だが猛反対された。まだ屋久島での生活実績もないから胸を張って大丈夫! と説得できる根拠もなく、ただただ屋久島で生活したいと伝えるしかできない。結局最後まで説得しきれていない。

 体験住宅は無事に当選し、移住することが決まった。親に最終報告をして引越しをした。

 これからの、世間一般でいう「普通」との戦いの日々、屋久島で仕事をして生きていくということ、これらの成果をいつの日かしっかりと説明して、納得してもらいたいと思う。











そして今、僕は屋久島にいる。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?