自分の気持ちを書き、公開することの責任

吉本ばななさんの本を読んでいた時に、「誰にも言わない自分だけの気持ちを持とう」という節があった。

日記に書いたりしてもいいけど、人に見せるのはあんまりおすすめしない、というか自分で決めて。というものだった。

これを「自分だけの気持ちを胸に抱き、大切にすることで、人生の主体性を取り戻す」と解釈した。たしかに、僕は人に見せるものも見せないものもたっぷり雑に書いてきて、自分がどういう気持ちを持っているか、言葉を扱っているか無自覚のうちに確認していたと感じる。

書いている時が最も主体的な時間で、自分の心も体も自分のもののような感覚がある。

ライターをしていると、編集や読者など求めている人がいるのでその感覚は薄れるけど、やりながら湧いてくる何かがある。

ブログは長く書き続けているけど、読まれても妻や母親やごく少数の友人くらいなので、より自分の気持の良いことを好きなだけかけるし、自由になっていく感覚がする。

書くことは、自分の中に主体的な何かがあると認識させてくれる、その間だけでも自由にさせてくれる素敵な行為だと思う。


でもその自由な感覚や、言葉を繋いでいく楽しさや、それを読んで共感してくれる人たちからの声と向き合い方を間違ってしまうと、せっかくの幸せな行為が悪い方向へと向いてしまうのかもしれない。

今話題になっているnote記事に「正直に思ったことは何でも言う。それに共感してくれる人を大切にしたい」と記されていた。

中身は、自身の好きになったものに対する素直な気持ちを赤裸々に語ってきた経緯と、現在の気持ち、その気持ちに対する様々な反応が綴られており、最後まで等身大の自分の気持ちを守り続けようとしていた。

自分の頭で考えて、心で考えたことを文字に起こすという極めて主体的な行為は、独特な心地よさと生きている感覚を与えてくれる。

その快楽物質は、人間の自意識や”正義感”を肥大化させるのかもしれない。

基本的には何を書いても良いんだよ。自分だけが気持ちよくなる自慰行為的なポエムを量産しても良いし、友人を笑わせるための奇文でも良い。

でも、その肥大化した自分の、自信たっぷりな正直な気持ちで何かを加害することは許されない。それは意見でも、批判でも、評論でもなく悪意や意地悪の類になるから。

書くことは、自分の考えや生き方を自認させてくれて大変素晴らしいことなんだけど、それを褒められたり共感してもらった(こちらも大変素晴らしくありがたいこと)時に、抱く多幸感やなんとも言えない快感。

もっと褒められたい、共感されたい、認められたいという気持ち。自分にどんどんついていく根拠のない自信と無敵感をも与えてくれるのではないか。

それにあぐらをかかないこと、それに振り回されないこと、その感情が世の中で、ネット上でどんな立ち回りをしているのかを勉強すること、自分が考えて、記していることなど、とっくの昔に誰かが何かに書いていること。

自由に自分の気持ちを書くのはとんでもなく気持ちがいいし、ちょっとそれが誰かに刺されば、それ以上の気持の良い快感が待っている。

でも、それを公開して誰かが対面にいる以上、責任を持たないといけないんじゃないかな。これは説教とかじゃなく、1番自分が守らなければいけないと思う。

好きだから楽しいから得意だから書いていたはずが、いつの間にかぼんやりとした気持ちの中で、何かしらの報酬のために書くようになってしまうかもしれない。まじでこれは気をつけないといけない。こういうところに書いている以上、少しは誰かに読んで欲しいな〜という気持ちがあるから。

全く持って説得力はないが、今は楽しいから、自由になれるから、僕は何かを書いている。


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