唾奇「道 -TAO-」ぶっ刺さり案件、死んだおばあにありがとう

吉本ばなな氏の本をAudibleで聞いてから、自分で書いたものをなぜインターネットに放流するのか、日記で良いじゃん、もしかしたらダサいのでは?

とか考えることがふえ、タイトル通り身内の不幸も重なって、諸々考えまくりだし、いつもと違う状況、環境に振り回されまくった一週間だった。

覚悟はしていたけれど、祖母が亡くなった悲しさと混乱の中、儀を進める家族の準備を手伝ったり、団欒を楽しんだり、今の暮らしで接している人とは違う人たちとのコミュニケーションに手間取ったり、急に寂しくなったりと身体と心がどんどん摩耗していくのを感じながら過ごしていた。(急なのに一緒に居てくれた妻っち本当にありがとう)

シンプルな悲しみや寂しさみたいな自分の気持ちをセーブしてしまう状況や、「人が死ぬってこんな感じなんだ」みたいな俯瞰した気持ちもごちゃ混ぜ状態になって、何がなんだかわからないまま時が進んで、気付いたらまたいつもの日常に戻ろうとしている。

なんにも手につかね〜!!! と思いながら音楽を聞いていたら唾奇の「道 -TAO-」がシャッフル再生でかかって、擦り切れるほど聞いた曲なのにも関わらず、リリックがぶっ刺さってきた。

中国思想の「道」から取ったであろうタイトル通り、具体的なワードと情景を書きながら、形のない思想をラップしていくこの曲。

フックの「グリってもbadになんて興味ないぜ いつも通りに戻るぜ」や、後半の「生まれた瞬間死に歩く」など、普遍的な理を唾奇らしいリリックで説いてくれる。

今のグリっていて、badな自分に寄り添ってくれるような曲で、聞きながら気持ちがどんどん整理整頓されていく感覚があって、なんとかいつも通りに回復していくような気がした。

とはいったものの、全然気がするだけで、「希望あるのありがてぇ」と何かを抱きしめながらどんよりと疲れている。

今年は、横断をコピーにして自分のホームベースを守るための戦いに出ようと思っていたけど、今ではないかなと思う。自分の好奇心とか、勉強したいと思う気持ちとか、周りの人を大切にしたいって思う気持ち、自分の感性や心を第一にして、大事に丁寧に静かに頑張るほうがきっと良いと思った。いつも通りを繰り返していくのが良い。

それが自分の好きなところで、自信のあるところだから、日々のお仕事とうまく付き合いながら、いつかなにかの役に立つ自分の好きなところをケアしながら生きていきたいと思った。大好きな自分を擦り減らしたくない。

この自分の好きなところは、どこから生まれたのかふと考えるとおばあがたくさん褒めてくれたからだと思う。

全ての、孫や子供に何度も言い聞かせてきかせてきたであろう、「あなたが1番、賢い・おもしろい・優しい(方言だったら、うむくとぅ・うむっし・つむかぎかな)」などなどの言葉が積み重なって、根拠のない自信に繋がっていると思う。

こういうことを書いて、放流するのは妻っちとか母親とか、大切な人に自分の状態を知ってほしいし、自分の中での思考のループを一度断ち切りたいし、読み返して「黒歴史乙w」と笑いたいからだなとも思う。

何はともあれ、カオス一週間の中で、ふと思ったこの事を一番大切にしていきたいと思う。おばあほんとにありがとう! もうちょっとでいつも通りに戻るよ、多分な。


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