見出し画像

心地よいコミュニティかどうかでライフキャリアを選ぶ時代になる

ライフキャリアを考える同年代のビジネスパーソンの方々へ。
少し立ち止まってライフキャリアを考えるスイッチになればと思い、徒然なるままにゆるくキャリアを語ります。

※全て個人の見解です

他人のことは完全には理解できない


他人のことは完全には理解できない。
真理を突いているようで、ちょっと寂しくもある、最近私の中で引っかかっている言葉です。
もう少しいうと、究極的には自分は他人ではないので、真に相手のことを理解し切ることはできないし、理解できると言っちゃうとおこがましい、そんな意味合いです。
これはとても誠実な態度なのですが、キャリアに悩む方々と日々向き合い、なんとか理解したいと1時間近くかけて聴き続けている身からすると、少し無力感のある気持ちになってしまうのです。

つい先日、HUFFPOSTのコラムで「わたしの物語はわたしだけのもの」という言葉にドキッとして、思わず紹介されていた映画を見に行ってしまいました。

「私だけ聴こえる」という、コーダ、つまり両親が耳の聞こえない「ろう」で、自分は健聴者の方々のドキュメンタリー。
聴こえる世界と聴こえない世界の二重世界で生きるコーダの少年少女の心の葛藤や、それぞれにとっての幸せをとても自然に切り取った素敵な映画でした。

色々な苦労はあるものの、「同情しないで。わたしがどれだけ幸せか知らないくせに、私の人生を決めつけないで」という主人公のナイラの言葉に、思い込み、決めつけの恐ろしさを感じたり。
言われると納得なのが、コーダの子たちは、健聴者でもなく、ろう者でもなく、コーダ同士の対話がいちばん心地よいんだそうです。

話せるし聴こえるんだけど、手話を織り交ぜた対話が日常なだけに、まるで手話が字幕の様に作用するやり取りが、心地よく波長が合うんでしょうね。
それぞれの世界は違う、それはとても当たり前なのですが、ハッとする気持ちでした。

近くにいることと、同じ世界が見えることは違う


監督の松井至さん(奇遇にも1984年生まれの同世代…!)が舞台挨拶のスピーチで、震災にあったろう者のご家族に取材されたときの話。
家のとなりに避難所があったのに(行こうとさえすれば避難できたはずなのに)、ろうの父母が布団の中で手をつないだまま、亡くなっていたそうです。
コーダの息子さんが「結局、自分の両親が何を考えているのか、分からないままでした」と言われ、いちばん近く、分かり合えているであろう家族の最期に突拍子もない断絶があったことに衝撃を受けた、と話されていました。

どれだけ近くに居ようとも、見えている世界は恐らく違う
同じ苦しみや悩み、喜びや悲しみ、同じ経験からくる同じ感情体験がある人同士とこそ、はじめて心のつながり、心地よさが感じられる間柄になりえるのかも知れない。そんなことを思った瞬間でした。

心地のいいコミュニティ、これはこれからのライフキャリアでキーワードになると思います。
同じ感情体験がベースにある人同士のつながり、これをどう見つけていくのか?そしてどうやって自分の感情体験を拡げていくのか?
これらが自分の世界を拡げるために、大事になりそうです。

心地よいコミュニティを拡げる着実な方法


よくみかける「WEB3.0」。
一つの捉え方によると、フローではなくストックつまり関係資産であり、いかにバズるか?多くのリーチを増やすか?が大事だったWEB2.0から、少数でいいので熱量と信頼あるコミュニティがキーワードになるWEB3.0の文脈では、「自分にとって心地のいいコミュニティを見つけること」は自然な流れになりそうです。

キャリア選択においても、どんな業界やどんな職種を選ぶかよりも、どんなフィロソフィーをもった集まりなのか?それは現場の一人ひとりまで浸透しているのか?何よりも誰と働くのか?これらがとても重要な意思決定ファクターになっていく気がします。

転職マーケットの流動性が高まり、スタートアップに資金が集まり、あらゆるライフサイクルが短くなってきたり。
そんな変化の時代では、語弊を恐れず言うと「何をやるのか?は変数にしちゃっていい」のかも知れません。(ちょっと乱暴かも知れませんが)

「他人のことは完全には理解できない」からこそ、いまの自分に無い感性や、健全な違和感を取り入れ、意識的な揺らぎをつくることが、自分の感情体験を拡げ、まだ見ぬ「心地よいコミュニティ」とつながっていく着実な方法なのだと思います。

いまに熱中しながらも、敢えて馴染みのない世界に触れてみる。そんな余裕をもてると、とても素敵ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?