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最終話:浦島太郎

浦島太郎を覚えているだろうか。

心優しい浦島太郎は、ある日、浜辺で子どもたちにいじめられていた亀を助けた。後に亀は「どうも、あの時助けていただいた亀です!」と登場し、お礼に竜宮城へと連れて行ってくれる。
浦島太郎は、乙姫様と共に鯛やヒラメが舞い踊るのを楽しんでいるうちに時が経ち、残してきた年老いた両親が心配になり、元の世界に戻ることにした。
別れの品として「おじいさんになるまで、けっして開けてはいけませんよ」と乙姫様に玉手箱を渡され、元の世界に戻ると、何もかもが変わっており、知り合いもいない。
一人になって浦島太郎は玉手箱を開けると、白い煙が出て、老人の姿になってしまった。竜宮城に行ってから、実に300年もの時が経っていたのだった。(諸説あり)

という話だ。
この話は、戦前頃まで割と生々しい話で、結末には諸説ある。

①鯛やヒラメが舞い踊ってるから、竜宮城で300年も費やしたのではなく、乙姫様に惹かれ、あんなことやこんなことを楽しんでいるうちに300年経ったという設定が残っていたりもした。(子どもに話せない系
乙姫様と再会した続きの結末もある。

とはいえ、浦島太郎は、竜宮城で長い時間を過ごしていたことにも気づかず、若々しいまま、現世がどうなっているか?に気づかず地上に戻って絶望し、玉手箱を開けたら現実を突きつけられるのは、やり過ぎ感がある。

この話も、他の昔話同様、「約束を破る怖さ」とか「遊び惚けて勤勉さを忘れる者への罰」みたいな教訓めいた話に着地しすぎ問題がある。

現代の玉手箱の煙「いくつに見える?」「年より若く見られます」

現代の婚活にも、「玉手箱」を開けたような状況になる言葉がある。

「いくつに見える?」と「年より若く見られます」だ。

寿命が延び、年齢より若々しく元気な人が増えた。とても良いことである。

若く見られる人には2パターンいる。

①若々しいを通り越し何歳でも貫禄が無いタイプ

②若く見えること自体に情熱を注いだ結果タイプ

どちらでもパッと見は変わらない。①も②も年齢は同じだし、体か肌か内蔵かどこかにちゃんと年齢は出ている。

ただ、①の人は貫禄が無いせいで誤解を呼びやすいため、なるべく「年相応」に見られるよう気を付けている。年齢は相手が(やべーすごい年上に変な口の利き方しちゃった…)と後悔しないタイミングでカミングアウトする。この人たちは、見た目が若く見えるのに中身が老害だとヤバすぎるため、「内面の若さを保つ努力」をせざるを得ない。

②の人は「見た目の若さそのもの」を欲し、努力している。実際、若く見えるし、それが嬉しくて「いくつに見える?」と初対面で聞いちゃったり、「年より若く見られます」と婚活アプリのプロフィールに書く。
その言葉に受け手は(年齢欄を見ようor年を把握しよう…あ…結構上だな)となる。「年齢にフォーカス」され痛々しく扱われるケースもある。
①の人ほど、割り切れていないのでショックが大きい。

後者の光景に遭遇する度に、浦島太郎の玉手箱の煙みたいだなと感じる。言わなければ、①の人も②の人も「若々しい」で変わらなかったのに、だ。

外側の若さより、内面の若さではないか説

興味や性格の若々しさは、その人の心のフレッシュさでもある。若く見える努力をしている人の持つ一定の柔軟性も、過少評価される必要もない。

何より、重ねた年はその人の成長だし、若々しく柔軟な内面と習慣は、その人の生命力であり魅力だ。
けれども、婚活の場では「年齢」は「年収」と同様、制約条件となる、大きな「定規」だ。本当にそれでよいのだろうか?

冒頭の浦島太郎に戻ると、太郎の良いところは「いじめられた亀を助けるやさしさ」であり、さみしさに弱く、言いつけを守らずに玉手箱を開けてしまったという短所も併せ持つ。そこに、300年の年齢を重ねたかどうか?は関係なく、浦島太郎の心は清くて弱い。

この浦島太郎には「続きあり」バージョンが存在する。箱を開けて老人になった後、太郎は鶴になり亀の乙姫と再会する。鶴と亀は長寿の象徴で、人間界の年齢の定規や器を超えた存在だ。
現世の枠を超えて結ばれ、幸せな結末に落ち着く。

問題は「定規に嵌められる窮屈さ」と「フラットなコミュニケーション不足」

ここまで7つの話を書いてきたが、私たちが婚活で直面する違和感の根幹はこの「定規に嵌められる窮屈さ」「フラットなコミュニケーション不足」だ。

定規でマッチしても、似た興味、似たスタンス、似た仕事といった内面や文化のマッチを探らない限り、価値観や生きるスタンスでかみ合わない。

こういう時、コミュニケーションで解消可能かどうかくらいは、大人なので1~2回会えばわかる。
本来、努力して埋められる程度なら、共通点を探し、お互いに選択権がある前提で、たくさん会話をして、気が合えば恋人から始めればいい。
そんな当たり前の「コミュニケーションのフラットさ」が、「定規」によってその人の市場価値に結びつけて身動きが取れなくなるから、「婚活はツラい」になりやすい。
そして、「定規上OK、価値観の溝がマリアナ海溝レベル」のエンカウントに片方のコンプレックスが絡むと、傷つけ合ったりツラさが増したりする。

結局、婚活も、定規で測るだけではなく中身の共通点が伝わりやすい、フラットなコミュニケーションで関係性が生まれる仕組みに変わることを願いつつ、この物語を終えたい。

=完=

編集後記

この「婚ツラ物語」を書いたのは、「なんでこんなにツラいんだろう」と思う人が、自分だけじゃなかったから。
特に、未婚と人格否定を結びつけた言説は当たり前になっており、心を痛める人も多いです。
(子どもの時に教わる「相手が変えられないことを理由に人格否定をしてはいけない」というマナーは何処へ…)

編集後記では、最終回の「年齢を感じさせてしまう事件」の原因にもなる、婚活の「定規」がどう生まれるか?に触れたいと思います。
まず、婚活の場では、人は「データ」になります。
マーケティングのお仕事でも、「データ分析」から予測することは「過去の正解データ」から成功確率を上げる行為です。基準が多様&変化したら、効かないこともあります。

以下の定規で測定しより多い選択肢を持つデータが「強」となります。
①男性:年収/勤め先の安定性&規模/身長/長男かそれ以外か
②女性:年齢/容姿/家事能力

過去の基準での成功確率を上げるための「定規」としては正しいのですが、幸福度や生存可能性などの基準が多様化した現代では万能ではありません。でも、新たな指標を作るより簡単なので使われます。
これにより「婚活=強制的に古い定規で測定」になりやすくなります。

その結果どうなるか?
①男女を「定規」で測る。
②その基準で正しいと認識しマッチングする。
③価値観や常識が極端に違うケースがある。

要は③はコミュニケーションで解決できないケースなのに、②で正しいとされているため「我慢できない方が悪い」「断る奴が悪い」という男女が互いを責め、自尊心を貶め合う本質的じゃない論説が出てしまう。
傷つく人も増えてしまうんですね。

この、「普通の男」論争も同様だと考えます。

記事のタイトルも「婚活が成功・失敗」で語られていますが、評価軸を「定規」に頼ることで「自分のものさし」が狂い、「借り物のものさし」で判断し続ける限界も含んでいます。

婚ツラ物語に書いたのは、そのワンシーンの切り取りにすぎません。男女逆転したケースも想定して自戒を込めつつ書いています。

「自分なりのものさし」はその人の価値観であり、先に述べた通り、価値観同士で向きあうには「コミュニケーション」を必要とします。

その上で「コミュニケーション不可能な溝」だったら仕方ないと切り替えるのが普通。
ビジネスの場や、友達付き合いを想起したら、容易に浮かぶ解決策なはずです。

一人一人の価値観やものさしに戻ると、多くの人は差別化した刺さるポイントが必ずあり、そこがマッチしたらベストです。

本来、人と人が出会えることは尊いし、そこから人は学ぶ生き物です。
出会った人とコミュニケーションが取れたらラッキー、それが結婚できる相性の人ならさらにラッキーくらいな感じで、もっと婚活もフラットなコミュニケーションに溢れ、楽しく進められる人が増えたらと願っております。

#婚ツラ物語 #婚活  

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