大 地 母 神 と 仮 面

 古代の豊穰の女神の姿は、人類文化の発祥の地とされるメソポタミアから中東を経て、西へ伝わってアフロディーテ、ヴィーナスそしてマリアと数々の女神に化身し、東に伝わっては破壊神シヴァの妃としてドゥルガー、パールヴァティ、恐怖の黒い女神カーリーとして姿を表した。旧石器時代の狩猟の女神は、次第にその姿を農耕の女神、豊穰の大地母神と変貌してゆくが、根源は大地の神であった。人々の営みが変化する毎に、女神の姿も変貌していったのである。農耕の発見は、自然のサイクルの発見であった。周期的に現れる天体と大地の関係は、神話の材料ともなっていった。毎年の収穫は全く奇跡的な力によるものとされた。母である大地と息子である穀物の関係は、男女の関係とも見なされ性的で象徴的な儀礼行為が生まれていった。その奇跡の力の因ってくる源である大地の母神に捧げられる感謝の姿勢も変化していった。始め、女神への滋養の供物は血や生首であった。収穫を保証するだけの生け贄が大地に捧げられていたのである。女神に対する崇拝の姿勢も、精神の進化と共に次第に様式化されていった。そのうちに、儀式に女神自身が登場するようになっていったのである。始めの頃にはただ狂乱の騒ぎであったかもしれない。女神は選ばれた者、あるいは狂気を爆発させた者に憑依し、神意を表したのである。やがてその女神は人工の仮面に憑依し、仮面をつけた者を動かして、人間世界に降臨するような舞台が作られるようになった。人間世界に降りた神に、人々は神意を伺い、供犠を捧げたのである。
それらの儀式はそれぞれの風土によって違ったものになってゆくが、大地母神への息子である穀物の再生を願う儀式には違いはなかった。農耕社会が大きくなり、国家が生まれると、儀式もまた都合よく整理されていった。
男性神の登場である。この構図は、紀元前、インドに侵入したアーリア人の神々が、土着の女神たちを妃としたことに残されている。侵略者たちも大地の神を抹殺することが出来なかったのである。アーリア人の神話にも夫たちが逃げ出した後に、凶暴な姿と成った女神が悪魔を殺戮することが記されている。
 仮面文化を辿ってゆくと、こうした太古の大地母神たちの前に行き着くことになってしまう。仮面だけを取り上げてその様式を分類するという作業は、とうてい仮面の持つ本質に迫ることは出来ない。人類の精神世界の発展、そして古代人が実感した、見えない霊的存在の人間への交渉を考えずに、仮面に触れることは、単なる美術評論に終わってしまう。
 我々にとって、彼岸の営みが生んだ仮面の本来の意味を読み取ることの難しさは、収集のために辿った険しい山道にたとえられるかもしれない。雄大なヒマラヤの山岳地帯に、細々とそして延々と続く蜘蛛の糸のような道。尾根を越えればもう言葉も違う異界が点在する世界。陽炎が揺らぎ地表を焦がす褐色の世界。干からびた地表も、雨期には孤島となる村々。外界と全く絶縁孤立した世界で、自給自足の農耕社会を営む人々の精神文化を、現代の物質文明の中で作られた教育を受けた者が理解することは、非常に難しいことである。それを端的に我々の前に見せてくれるものが仮面である。異界との境界に、城壁のごとく外を向く仮面は、城内世界の情報を自らの表情の中に刻み込んでいるのである。それら仮面の驚くべき分類不可能ともおもえる多様さと、豊か過ぎるともいえる変化に富んだ表情と、穿たれた眼窩の見つめるもの。それら仮面がいったいどういう世界をあらわしているかは理解できないが、我々は自分たちの想像と理解の範疇を超えた世界の存在を知るのである。想像外のものに触れる時、人は人間世界の多様性を実感するのである。そして同時に我々自身の育った世界にも目を向け始める。そして、人間の精神の歴史と、自らの文化の多様性に感動し、感嘆の声を上げるのである。他文化に触れることは、自文化を認識する契機となり、翻訳不能な自らの民族意識に目覚めるのである。
 民族とは固有の風土に育まれた大地から育ったものの流れと言い換えることができよう。大地母神の胎内から毎年再生する穀物。それと我々の存在形態といかほどの相違があろう。視点と尺度の違いは、不動な山をも波のように揺れ動くものとして捉えることができる。民族の流れは太古祖先の上流から、現在の自分を通って遙か下流の子孫に連綿と流れ続ける血脈とも見えよう。個々独特の風土に育つ人間が、世代の流れの連綿と受け継ぎ伝えてきたもの。それらは翻訳不能な遺伝子のなかに組み込まれたものなのである。それを読み取ることは自身にしか出来ないし、それを読むためには意識の覚醒が必要なのである。日常からの覚醒は、日常の価値を再確認させてくれる。漠然と暮らしていた国土の豊かさと、恵みを知ることは、古代の大地母神の姿を思い浮かべることに繋がるであろう。我々は母神の息子であり、恋人であった。彼女は我々の再生のために、冥界へ赴いて試練を経て世界に連れ戻してくれるのである。母は我々を産み、育て、飲み込むのである。
 他民族および他文化に接触するということは、本来非常にデリケートなことである。ヒマラヤの大自然が生み出した仮面と対峙し、古代人に繋がる深層意識の中から、大地母神の豊かな肢体を思い出し、本来の豊かさを再考すべきではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?