「真贋」とは何か

 熟語には反対の二つのものを並べるものが多く存在する。例えば「静動」「生死」「上下」「盛衰」などだが、これらは対極の二つを並べているのか、二つしか存在しないのか、という点に着目すれば、さらに細かな分類ができるだろう。

 「静動」「生死」のような熟語は完全分離の二物を並べている。「静」は「止まっている様子」を表すが、「止まっていない状態」というものを考えればそれはつまり「動いている」ということになる。「生死」についても同様であり、「生きていない」のであれば「死んでいる」ということ(ここで「植物状態という場合もある」という指摘をするのはナンセンスだ)なのだから、やはりこれも完全分離している。

 一方「上下」「盛衰」は完全分離ではなく、「両極端」を並べているものである。「上下」の例が最も分かりやすいと思う。世の中には「上下」だけでなく「中」という「等しい高さ」というものが存在するし、「上下」によって修飾される一方が「上」であるならば、他方は必ず「下」でなければならない、という条件が発生することになる。これは「上下」が先の二例のような「絶対比較」ではなく「相対比較」であることによるものである。

 「絶対比較」「相対比較」といきなり言われて戸惑うかもしれないのでここで簡単に説明をしておく。「絶対比較」とは比較対象の状態が「絶対的」であることを示す。「静動」であれば、対象が手を振っている様子を見た場合に必ず「動いている」と判断がなされるということである。「相対比較」は「相対的」つまり対象「二つ」の関係性によって変化するのだ。「高さ100メートル」は一般建造物としては高いが、東京スカイツリーと比較すれば圧倒的に低くなる。このような比較対象の違いによる判断の変化が、「上下」「盛衰」には含まれているのである。

 さて、ここからが本題である。長ったらしい前置きで申し訳ないのだけれど、今の段階で飽きていなければ、引き続きお付き合い願いたい。

ここまで「絶対比較」「相対比較」という二つについて説明したが、では「真贋」という語についてはどうだろうか。「真」つまり「本物」と「贋」つまり「偽物」の対比である。次の内容に進む前に、読者は是非一度立ち止まり、判断してみてほしい。

 個人の偏見であるかもしれないが、「真贋」という語は「絶対比較」である、という判断が多いと思われる。先の判断の方法に従うならば「本物でない」とはつまり「偽物である」なのだから、「絶対比較」である。そのように判断するのは至極当然だ。

 では「相対比較」と判断するのは誤りなのか。否、正しい。これは大顰蹙を被ること必至なのだが、私は「どちらも含んでいる」という判断をする。では、この場合何が「相対的」なのか。私は「全てが偽物、模造である」と答える。

 さて、ここで数少ない読者諸君のうち9割が私のことを「頭のおかしい人間だ」という判断をしただろう。間違いではない。このような屁理屈を思いついて深夜に文章にしようという人間だ。どこかが間違いなく狂っている、と自分でも思う。しかし一応言い分だけは聞いていただきたい。

 世の中には「本物」と「偽物」がある。鑑定などではよく「贋作」が見つかることも多い。所謂レプリカだ。それ自体は「絶対比較」である。ならば「相対比較」における対象とは何か。「相対比較」の対象を求める際に必要な視点、それは「時代」と「オリジナリティ」の二つの視点である。

 ここまでの拙文で私の言いたいことが分かったのなら脱帽ものであるが、おそらくは殆どの人が頭に「?」マークを浮かべているだろう。ここで先程私の答え「全てが偽物、模造である」を思い出してほしい。

 世の中に数多くある物は絶対に何らかの影響を受け、その形を成している。例えば今読者諸君がこの文章を読む為に使用しているパソコンかスマートフォンかフィーチャーフォンかタブレットのモニター。これは必ず「長方形」である。デザインとしてハートマークやら星形やらがあっても良いはずなのだが、規格や設計上の課題、さらにコストパフォーマンスなどの要因によって長方形になっている。縦横の大きさや比が変わることはあっても、この点だけは不変である。これは世界で最初に作製されたモニターも同様である。ということは、最初のモニター以外、特に現在稼働している情報機器の殆どは「最初のモニターの影響下にある」ということになるのだ。

 「真贋」に話を戻そう。世の中にある全ての物は「偽物」である。これはある意味当然のことであるのだ。人間の創作した全ての物は間違いなく同時刻よりも前の事物の影響を受けているし、完全なるオリジナルというものは存在し得ない。芸術家やかつての文豪が先駆者たちに師事し、その技法を学んだのは、言語化されている、もしくは言語化し得ること以外のことを経験として吸収することが目的だったのは明白である。世の中にいる全ての「天才」は「ゼロから1を生み出した」のではなく、「無数にある1以下の小数を練りあげて1にした」のだ。

これは論理のすり替えに他ならない。なぜなら「贋作」とは「本物そっくりの偽物」という意味なのだから、単に影響を受けた・受けていないという点、つまり「完全なるオリジナル」の話などしていないのである。ならば「相対比較」の新たな視点を設けよう。それは「どの作品を本物とするか」という点である。

「本物」と「偽物」が存在する。それは確かだ。例えば世の中には絵画の贋作は掃いて捨てるほど存在するし、世間には「贋作家」なる存在も居るという。もちろんコピーしたものであるのだから「オリジナル」に対しては「偽物」であるが、「贋作家の作品はどれか」という視点で見れば「オリジナル」こそが「偽物」という扱いになるのだ。

もちろん「先に作られている物」「真似された物」である「オリジナル」が「本物」であることは揺るがない。しかし全作品の時代を無視して並べれば、「真贋」の価値は逆転するのである―――――――――という非常に下らない内容を思いついたのであった。


Konose

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