見出し画像

<短編小説>ハツカネズミのリンナ 2家庭教師がやってきた

<ハツカネズミのリンナは、とある家の屋根裏部屋で、お母さんのアナと、あとから生まれたきょうだいたち家族で暮らしています。>

 リンナは、鏡の前に立つと、あれこれとポーズを取ってみました。ネズミは服を着る必要なんかないけれど、人間のように服を着たらどんなかしら? と、考えました。ピンク色のワンピースや、紺色のジャケットなんかを着てみたら。リンナは、想像して楽しくなりました。
 ふと思い出したように、リンナは、床に落ちていた布切れをひろい、目の前の全身用鏡をそれでこすり始めました。この家の人間の一人、子どもたちの母親が、そうしているのを見たからでした。
 ついでにいっておきますと、人間の母親の名前はナオコ、父親の名前はソウタといいました。ナオコは背が高く、足腰のしっかりした、大柄な女の人でした。長いかみを後ろで高くお団子にまとめ、その長い足には、よく、ぴったりしたパンツをはいていました。ソウタは、背はナオコと同じくらいでしたが、もっと細い印象で、やさしい顔つきをしていました。平日は、朝出て行くと、夕方ごろまで帰ってこないのですが、茶色い長そでティーシャツがお気に入りで、三着持っており、家の中ではたいてい、それを着ていました。リンナはひそかに、自分と同じ色だと思って、ソウタのことをちょっと気に入っていました。
 ナオコとソウタは、二人とも都会の出身です。結婚したあと、田舎での暮らしにあこがれて、山に近すぎず、遠すぎないあたりの、まわりは田畑ばかりという、理想の古民家を買ったのです。また、家は木々で囲われており、まるで山小屋のような雰囲気もありましたから、ナオコもソウタもとてもよろこびました。
 さて、リンナは、鏡に向かって、はあっと、息をふきかけてはふく、ふきかけてはふく、をくりかえしました。そうして、なんだかいいことをしている気分になって、リンナはうきうきしました。この、てっぺんのとんがった、おかしなかっこうの鏡は、もちろんリンナの収集品でした。となりの納屋で、落ちていたのをひろってきたのです。ずいぶん運ぶのに苦労しました(運びおえたあとは、もう百万馬力にきたえあがったのではないかと思うほどです)が、持ってきたかいはあったでしょう。
 リンナは鏡をみがきあげてしまうと、できばえを観察してから、くるりと向きを変えて、屋根裏から一階へおりていきました。
 
 屋根裏からは、いくつかの部屋に通じています。リンナはタンスの後ろで、ごく小さな穴から顔を出しました。
「リンナ! あなたってほんとうに危険を知らないのね!」
 頭の中で、声がひびきました。
「心配いらないわ、マニィ! あたしはこの時間に、ナオコが書斎に閉じこもるのを知ってる」
 リンナが答えた相手は、リンナの架空の友だちのマニィでした。リンナは親友というものにあこがれていました。(もちろん、それは、多くがあこがれるものでしょうが。)そこで、リンナは、自分に親友がいることにしたのです。名前はマニィといって、うすいグレーの毛をしたハツカネズミでした。リンナが、どんな親友がほしいか、ソファにねそべりながら考えをめぐらしていると、ふわっと頭にうかんできたのです。そんな色の毛をしたハツカネズミなどいるわけがない、だけど、そんな色の毛があったら、どんなにきれいかしら? とリンナは思いました。
 リンナはときどきこのマニィを思い出しては、親友ごっこをして遊びました。たとえば、ソファにすわって、自分の作った物語を聞かせっこして、意見を出し合うというようなことをします。とはいえ、いつも、話すのはリンナばかりでした。それから、実際、マニィに手紙を書いてみたりするのは、とても楽しいことでした。
「あたしの親友マニィへ。お元気? そっちはどんな様子かしら? あなたのお家は海が近いから、きっと窓辺にすわって、波の音でも聞きながら、詩でも作ってるんでしょうね。きみょうだわ、あたしは詩なんて作ろうとしたことがないの。でも、あなたの真似をして、たまにはそんなことをしてみてもいいかもしれないって思ったわ。あたしが最近はまっていることといったらね、なんだと思う? それはね、」
と、まあ、こんな具合です。

 リンナはタンスの後ろから顔を出しかけて、びっくりぎょうてん飛びあがりました。
 どうしてでしょう、そこは子ども部屋だったのですが、ナオコが入ってきたのです。リンナはタンスの影から、こっそりナオコを見あげました。おかしいわ、いつもなら書斎にこもって、せっせと仕事をしているころなのに。
 ナオコはものすごい勢いで、床に散らばっている本を片づけ、はたきであちこちのほこりを落とし、持ってきた掃除機をガンガンかけました。
 リンナは思わず耳をふさいで、顔をしかめました。それに、なんて残念なんでしょう、ユメカのすばらしい習慣、それは本を床に放り出しておくという習慣ですが、それがまったくの無に期してしまったのです。というのも、リンナのお目当ては、まさに床にちらばった本でした。
 こうなっては、もう本を読むことはかないません。リンナはひどくがっかりしました。しかし、未練がましく、長くとどまっているわけにはいきませんでした。ナオコはこの家の人の中でも、一番に見つかりたくない相手でした。リンナは本能で、そう感じていたのです。

 たしかに、それはまちがってはいないでしょう。 
 つい先週のこと、ソウタは家の中で、ゴキブリを見かけました。黒くてうすっぺらくて、と、あまりくわしく書くのはやめておいたほうがいいでしょうね、とにかくそのものが、廊下のすみを走っていくのを見かけました。ソウタは新聞紙を持って応戦しましたが、一室へにげこんだやつは、あっという間に姿を消してしまったのです。
 しかし、ソウタは、この出来事について、ナオコにはだまっておきました。やつをとりにがしてしまったと知れたら、どんなに非難されるか分からなかったですし、何より、憂鬱にさせるのがいやでした。とにかく、ナオコにとって、何かよろこばしくないものが家の中にいる、なんてことは、我慢がならないことだったのです。
「何もこれで、すべてが悪いというわけではない」
 と、ソウタは考えました。
「やつにとっては、命びろいして何よりだったのだから」
 とはいえ、とりにがしてしまったことに変わりはなく、いつやつが出てきて、ナオコをおどろかせやしないかと、ソウタはびくびくしていました。理由の一つには、ソウタはナオコのさけび声が苦手でした。虫、それもやつを見たときのさけび声といったらすさまじく、ソウタは宙にとびあがりそうになり、ひどく不安な気持ちになります。どうしてあんな声が出るものかと、ソウタは心臓をどきどきさせながら思うのです。たしかに、やつは気味がわるいものだと、ソウタも思うのですが。
 しかし、ソウタも、今となっては、やつのことなどわすれてしまいました。

 さてリンナは、こうとなってはいさぎよく、退散することにしました。
 今日は天気がすばらしくいいわ。食事にでも出かけることにしましょうか。リンナはまたかべの中へもどり、さっさと外への道を行きました。

 きりっと冷えた空気に心地よさを感じながら、リンナは考えました。
「今日は何かあるにちがいないわ。ナオコがこんな時間に部屋を片づけたりしているんだもの」
 リンナは葉っぱを食べながら、にやっとわらいました。ぜひともその何かを、この目でみなくては。

 夕方ごろ、ナオコが部屋を去ったあと、リンナはまた子ども部屋へやってきて、たなに置かれた船の操舵室へもぐりこみました。船といっても、それはアイトのおもちゃで、実際の海には、まだ出たことはありませんでした。しかし、船はとても満足でした。アイトと旅に出る海は、いつもおどろくほど冒険に満ちあふれ、不思議で不可解な場所だったからです。このまえに行った洞窟ときたら、なんて神秘的でぞくぞくしたことでしょう。
 今、リンナは、そんな船の操舵室に身をひそめ、何が起こるかを待ちうけました。
 船にとって、リンナは、アイトのほかの、ひみつの友達でした。こうしてときどき、リンナが中にひそんで、人間の生活を観察するのに、手をかしてやるのです。とはいえ、アイトがいるときは、それはとても危険なことでした。いつアイトが船と遊びたがるか、分からないからです。アイトがたなの上の船に目をやったとき、リンナは、さっと反対側からぬけ出して、近くの小物入れ(本の形をしています)の後ろにかくれます。そうして、アイトが船を取り、リンナは、いいときを身はからって、部屋を出ていくのです。出ていくときには、もちろん、たなから下へおりなければなりませんが、それは、壁の小さなでこぼこを足場にして、器用におりていけばよいのです。のぼったときとは反対に足を動かしていけばよいのです。ちょうどはしごをおりるようなかっこうです。(リンナの特技の一つには、つなわたりがありました。リンナはこういった手のことには、ほかのハツカネズミよりも、いくぶんか才能があったのです。)

 やがて待ちくたびれて、リンナは、船の中で、そのつるつるしたかべによりかかりました。そのうちしだいにねむたくなり、リンナのまぶたは落ちました。そうしてうつらうつら、夢と現実の間をさまよっていると、遠くの方で、バタン、ざわざわと音がしました。はっと現実の世界にもどったとき、(そのとき、よりかかっていたかべからすべり落ちてしまったのですが、)一瞬、リンナは、自分がどこにいるのか、まったく思い出せませんでした。リンナは次の瞬間に、わっとすべてを思い出すと、操舵室の窓へ飛びつきました。
 玄関の方で、ユメカとアイトの気配がします。学校から帰ってきたのです。
「おかえり!」と、ナオコが出むかえる声が聞こえました。
 リンナは耳をぴんと立て、じっとかれらの方に集中しました。特別、いつもと変わった様子はありません。それでもリンナは、何かいつもと違ったところがないか、なおも意識を集中させ続けました。
 さて、ユメカとアイトは、いつものように、部屋へ荷物を置きにきました。いつもと同じです。そして、手を洗いに部屋を出ていきました。やはりいつもと同じです。リンナは少しだけ、がっかりした気持ちが、胸のうちにわきあがってくるのを感じました。
 しかし、そんな気持ちになるなど、まったくはやまった話でした。
 リンナが一匹部屋へ取り残され、リビングの方で、みんながおやつを食べている気配を感じ、鼻をひくひくさせているときでした。玄関でチャイムが鳴ったのです。
 だれかが来たのだわ! だれかしら。リンナは好奇心に、心がふるえるようでした。
 
 ナオコが率先して客人をむかえに行き、ユメカとアイトが、その後ろへ、そわそわした様子で続きました。
 リンナは耳をすませました。あいさつをしている声が聞こえます。
 「あ、ええ」だとか、「そんな……よろしくお願い……ます」といった言葉が聞こえ、なんとも心地のよい、愛想に小さくわらう声が聞こえました。もちろん、ナオコの声も聞こえてはいたのですが、もうリンナの興味は、見知らぬ客人にばかりそそがれていました。
 ええ、たしかに、家の中までやってくるにちがいないわ、とリンナは思いました。ナオコが部屋を掃除していたのだし、あれは、宅配の人でもなければ、あの自治会の、お金を取りに来る人ではない……。
 しばらくして、その客人は、リンナのところへやってきました。
 ナオコに案内され、はにかんだ様子のユメカとアイトをつき従えてやってきたのは、緑色のコートを着た、若い女の人のようでした。リンナはその人を見たとたん、すっかり気に入ってしまいました。やわらかなふわふわとしたうす茶色の髪は、後ろで無造作に結んであり、同じ色のひとみをした目は、目尻がたれていました。そして、まんまるの大きなメガネをかけています。顔立ちはほっそりとしていて(体つきも似たようなものでした)、鼻が驚くほど高く、少し大きすぎるくらいですが、それが魅力的に見えました。
 女の人は、おずおずした様子で、ナオコの話を聞いていました。
 話を聞くところ、女の人は大学生で、春には四年生になること、家庭教師として、この家にやとわれたことが分かりました。
「先にお話ししてあるとおり、特に算数に力を入れてほしいの」
 とナオコはいいました。
「その、算数に問題があるとういうわけではなくて、今学校でやっていることでは、物足りないと思うのからなの。ほら、わたしは数学が好きで、それもあって、ユメカにも、もっと応用的な問題をやらせたいんです。この子は、中学受験をするわけではないけど、でも、だからといって、学校の勉強だけで満足するのは、少し残念な、もったいない感じがするでしょう」
「え、ええ」
「それで、ユメカの出来具合を見て、学校よりもどんどん先に進めてくれてかまわないわ。それで、できれば、中学で勉強を始める、数学、にもふみこめたらいいと思ってるの」
「わ、分かりました」
 家庭教師は、こくこくとうなずきました。
「やり方はおまかせします。とても助かるわ」
「いえ、そんな、あ、アルバ、ええ仕事なので」
 ナオコは、どぎまぎしている相手を見つめ、満足そうにほほ笑みました。
 若い家庭教師は、緊張しながら、頭の中で考えていました。この人は、わたしがこんなにたよりない態度を取っているというのに、それを気にする様子がない。信用してくれているように見える。よかった……。やっぱり思うように話せなかったけれど、不信感をいだかれずにすんだんだわ。案外わたしも、ちゃんと先生らしくなれているのかもしれない。
「それで、」とナオコが続けました。「先にお話ししていたとおり、ユメカの勉強が終わったら、六時までは、この子たちの相手をお願いしたいの。これくらいの年齢で、ベビーシッター、なんていい方をしていいものか分からないけれど、でも、お願いしたいのはだいたいそんなことよ」
「ええ、承知してます」
「ありがとう」
 ナオコはほほ笑んで、かるく頭をさげてみせました。
 そうしているころ、アイトは、うでを組み、まじめくさった顔をして、いかにも何か難しいことを考えているふうにしていました。
「おねえちゃんには家庭教師がつく。勉強を教えてもらうのだから。でも、ぼくには、ベビーシッターだ。ぼくは勉強を教えてもらわないから」
 と、アイトはいいました。
「そう? ああ、ベビーシッターなんて言葉を出したのが悪かったかもしれないわね。アイトにも家庭教師がつくって思えばいいのよ。なんて呼ぶかなんて、勝手なんだし、家庭教師が教えるのは、別に勉強にかぎらないのよ? それに、だったら、本を読んでもらったり、文字を教えてもらったりしなさいよ」
 ナオコは、アイトが、ベビーシッターでは不満で、家庭教師についてもらいたかったのだと思いました。ですが、実際は、アイトの気になるところといえば、自分につくのがなんなのか、というところでした。
「そうかな?」
 アイトは考えながらいいました。
「ぼくにも家庭教師がつくと思っていいのか」
 アイトは自分に何がつくのかを知って、少しうれしそうに、口元に笑みをうかべました。
 一部始終を見ていたリンナは、家庭教師という言葉に、すっかり魅了され、ユメカとアイトがうらやましくてたまらなくなりました。リンナが知っているお話にも、先生という名のつく人たちが出てきて、主人公に賢い知恵をあたえ、いつもそばで、思っていてくれるのです。
 しかしリンナは、わたしにはお母さんがいるわ、と思いなおし、やはりわたしには、先生はいらない、と思いました。先生を持つよりもすてきだと思うのは、自分が先生になることだわ、とリンナは思いました。
「それじゃあ早速、今日の勉強をお願いしますね」
 ナオコがいって、みんなはぞろぞろと、勉強のために動き始めました。
「先生、この家では、ほんと、自由にしていてくれていいですから。そうだ、お茶、飲みます?」
 先生は、あ、おかまいなく、とあわてた調子でいって、それでも最後には、
「ありがとうございます」
 とささやきました。
 ふと、先生の目に、黒々として光るものがうつりました。それは、二つあって、と思うと同時に、さっと見えなくなりました。
 もちろん、これが先生の関心を引かなかったわけはありませんでした。先生はさりげなく、船の窓に目をこらしました。しかし、しんとして、何も見えません。気のせいだったわ、と先生は思いました。何かがいるように見えたけれど、もう一度見てみると、なんだ何でもなかった、ということは、よくあることです。
 静まりかえった船の中、リンナはかがんで、心臓をどきどきさせていました。というのも、あの先生と、目が合ってしまったからです。向こうには分からなかっただろうけれど、いや、どうかしら? リンナの頭には、いろいろなことが、目まぐるしくうかびました。それは、いいことと、悪いこと、両方です。
 見つかってしまった、かも、しれない。そんなことは、生まれて初めてでした。リンナはどうしたらいいのか分からず、とにかく、今はじっとかくれていようと思いました。そうすれば、かりに何かを見たとしても、気のせいだったと思うでしょう。リンナはかくれているうちに、頭にうかんでくる様々なこと(たとえば、こちらに先生が向かってきて、しっぽをつまみあげ、ナオコに、「どうしましょう?」といいに行くところだったり、言葉が通じて、どうか逃してくれないか、と交渉するところだったりしたのですが)をながめているうちに、心は落ちついてきて、静かに頭を働かせられるようになりました。
 リンナは、それでもどこか気が確かではなかったのです。リンナは、じっとしながら考えているうちに、次第にわくわくしてきました。それも、リンナの頭に、先生となかよくなるさまがうかんだからでした。ネズミと人間がなかよくなる様子です。リンナは、人魚姫のお話を思い出していました。海に住む人魚姫が、陸に住む人間の王子様に恋をして、魔女にたのんで足をもらい、人間の世界に飛び出していくお話です。なんて、だいたんで、勇気ある行動でしょう。リンナは、海の中から見た人間の世界が、どれほど遠く、未知の世界かを思って、ぞくぞくしないではいられませんでした。そして、リンナの知っている人魚姫のお話では、実際に王子様と結ばれるのですから、リンナのあこがれの気持ちは、より一層大きくなるのでした。そんなとほうもない冒険をやってのけ、すてきなものを手に入れるなんて、なんと夢のような物語なのでしょう。そして、今まさに、リンナはそんな人魚姫のお話と、自分が人間となかよくなることを重ね合わせ、一人心をふるわせました。人間と友だちになったら、どんなにすてきか、リンナは想像に想像を重ね、はあっとため息をつきました。
 人間の生活や考えることといったら、いつもおもしろいものばかりです。いつも観察してばかりだったあの人間たちの一人と、友だちになれる可能性があるとしたら? それぞれの生活をお話しし合ったり、食事をしたり、それから出かけたり、できるとしたら?
 しかし、リンナは、自分は夢想家であると自覚をしていましたが、一方で、ひどく現実的でもありました。リンナは生きるための術を、アナからしっかりと教わっていたのです。
 リンナは今、先生の前に姿を現したとしても、言葉など通じず、友だちにはなれっこないことを知っていました。リンナは船の中でしゃがみこんで、じっと悲しい気持ちで、しっぽをにぎりしめていました。
 そうしてるうちに、どうやらユメカの授業が始まったようでした。さっそく算数をやっているようで、いろんな数字が聞こえてきます。かけるだの、割るだのといった言葉が聞こえますが、リンナには何をやっているのかさっぱり分かりませんでした。リンナは静かに立ちあがって窓からちらっとのぞきました。ユメカと先生の後ろ姿が見えました。リンナは先生の横顔を見て(それはおっとりしていて、やさしそうな顔でした)、またため息をつき、しゃがみこみました。友だちになどなれないと分かってはいるのですが、親友、というものが、あの先生だったら、と思うと、いてもたってもいられない気持ちになってしまうのです。マニィがいるでしょ、と、心の声がいいますが、空想上の親友マニィなど、なんでもないように思えて仕方ありませんでした。

 授業が終わると、先生は、夕食の時間まで、ユメカとアイトと遊んだり、お話をしたりして、それから帰っていきました。リンナは部屋にだれもいなくなると、物思いにふけりながら船を出て、屋根裏部屋へと歩きだしました。どうしたら、先生と友だちになれるでしょうか。リンナはやっぱりあきらめることができませんでした。
 先生は大学で、生物や環境といった分野を勉強しているようでした。今度四月には、研究室に入るのだといいます。先生となかよくなったら、研究についても、あれこれと聞いてみられることでしょう。あの人見知りなユメカでさえも、先生の大学のお話を聞きたがりました。そしてそれはリンナも同じでした。大学というのがどんなところなのか、リンナはまったく知らなかったのですから。
 リンナははたと立ち止まりました。
 生物が好きなら、先生はネズミも好きかもしれない、とリンナは気がついたのです。
 リンナはちょっとうれしくなって、ひげをふるわせ、また、歩き始めました。

「リンナ、何してるの?」
 弟のラークが、リンナに向かっていいました。
 リンナはメモ用紙の上に立って、一生懸命、両腕にかかえたペンを動かしているところでした。
「分からない? 手紙を書いているのよ」
 リンナはあえぎながらいいました。それからつかれはててペンを投げだし、どさっと床にすわりこみました。
「どうして手紙なんか書いてるの?」
 と、ラークが聞きます。
「先生に書いてるのよ。先生にごあいさつのお手紙を書いているの。ともすれば、これを読んで、あたしに返事をくれるかもしれないから」
 ラークは目を大きくしました。
「先生? だれなの、それは。でも、手紙って、そんなの読むの、もしかして、にんげ……」
 リンナはしっと、だまるようにいいました。ちょうど、アナが寝床から出てきたところだったからです。
 もちろん、アナに秘密を作りたいわけではありませんでしたが、もしも人間と友だちになろうとしているなど知れたら、アナがだまっているわけはないでしょう。ですから、リンナは、今はまだ、だまっておきたかったのです。
 そうはいっても、リンナは、すわりこんだまま手紙のできばえを見て、大きく肩を落とし、「ああっ」とさけんで、後ろざまにひっくりかえりました。
「だめだわ! これから先、そうとうな練習が必要ね」
 リンナはそのまま目をつぶりました。がんばって書いた文字は、がたがたで、とても読めたものではなかったのです……。

 それでも、練習さえすれば、きっとできるようになるわ、とリンナは静かに考えました。
 そして、先生が、自分の書いた手紙を読むのを想像して、リンナはちょっとわらいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?