劇場版海辺のエトランゼ

2020年9月11日に劇場版として公開される『海辺のエトランゼ』。

私の価値観を変えてくれたと言っても過言ではない作品が映画化され、とても有難いことに試写会で最速鑑賞をさせて頂いたので今回初めてnoteを使用し激重感想を書き記しました。(私が思っているだけでそこまで重くはないかもしれない)

初めに――。 

私は恋愛に性別なんて関係ないと思っています。私自身同性の方とお付き合いさせて頂いた事もありますので。そもそも恋愛とは自由なものであり制限出来るようなものでは無い。感情も思考も全ては当人にしか分からないものでありそれは縛られるものでは無いと思います。だからと言ってそれを否定する声もまた自由であり当然の事です。それも自由なものですから。

自分も人間ですので思考の偏りがあると思います。無用なトラブルを避けるためこの感想は前述したような人間が書いている、そして原作である海辺〜春風のエトランゼ最新刊まで読んでおりそこも含めて書いている、つまりネタバレ満載である、それを踏まえた上でお読みいただければ幸いです。

海辺のエトランゼとは

小説家の卵でありゲイの橋本駿と、物憂げに過ごす高校生の知花実央。2人は沖縄の離島の浜辺で出会い、駿は実央が気になるあまりナンパめいた声掛けをしてしまう。それが切っ掛けとなり、2人の距離は日に日に縮まっていくが実央は島を離れることに。時は流れ3年後。20歳になり大人になったよと再び駿の前に姿を現した実央は、「3年考えた。男でも駿が好き」とストレートに駿に気持ちを伝えるが駿はそれを受け止めきれず――。   (一部原作あらすじより抜粋)

月刊誌onBLUEで連載されていた作品であり、現在は続編である春風のエトランゼが連載されています。男同士の切なく焦れったい、そして周囲の人間達も巻き込んで恋をする二人の物語です。

劇場版を観て

原作版の話だけでも一晩語れるような人間なのでここからは劇場版の感想を書かせて頂こうと思います。

観終わった時の率直な感想は

めちゃくちゃ良かった……

です。

そりゃあ原作本だけでも電子版含め何冊も購入している人間が観ればそうなるよね〜という感じなのですが具体的にどこが良かったのか、私の感じたままに書かせて頂きます。

光と影の使い方

映像化をした時に二人の立ち位置、関係性をが光と影を使い方表されており、一番的確で分かりやすい表現方法だと思いました。そこが分かりやすく出ていたなと思う二点を上げて書いていきます。

・夜に海辺のベンチで一人海を眺める実央、そんな実央を街灯の光の下から見つめる駿。

・お腹を空かせているだろうと街灯の光の中から店の余りが入った紙袋を手渡そうと手を伸ばす駿、それを街灯の光の中に入らず暗闇から受け取る実央。

この時の実央はたった一人の家族となっていた母親まで失い塞ぎ込んでいました。自分に近付き同情の目を向けるものは全て信用出来ない、そんなものはいらない迷惑だと。そんな実央に近付いてきた駿は実央からすれば、他の人間達と同じように何の悩みもなく光の中で生きる人間達と同じように見えたのではないかと思います。ですが、駿はそんな実央のいる影に臆することなく迷うことなく影に入り込み実央の手を掴みます。それは何故か?駿も傷を抱えており、本来ならば影の下にいる人間だからです。光の中にいる駿はあくまでも橋本駿を知らない知花実央が見た駿であり本来の駿では無い。本来の駿は自分のこと、家のことに傷付いた人間。光か影かで言えば間違いなく心に問題を抱えた影の人間であると思います。そんな駿だからこそ一歩引かず実央の元へ行けたのではないかなと、そう感じました。

ですが、駿が自分で言っていた通り下心しかなく実央とお近づきになりたくてそんなこと考えていなかったのだと思いますが 笑

だとしても二人の心の距離をこういう風に表現するのは素晴らしいなと、私は泣きました。他にも心の壁を表情する為に二人の間には必ず物があったりするのですがそれはまたの機会に…。公開が待ち遠しいです……。

桜子ちゃんについて

劇場版で一番嬉しかったのは桜子ちゃん心象が細かく描写されていた事です。自分、桜子ちゃん幸せになってくれってなんなら自分が幸せにするって思ってしまうくらい桜子ちゃんが好きなので本当にありがとうございますと心の中で何度も叫んでいました。

劇場版で増えた描写や、原作から変更されていた表現を観て、「ああ、桜子ちゃんは駿から自分を選んで欲しかったのかな」と改めて思いました。女の子って自分の幸せを一番に考えてしまう事が多いと思うんです。まあ、女の子に限らず誰もが自分が一番幸せになりたいですよね。駿だっていつか好きになった相手と、って幸せを感じる事を望んでたわけですし。誰もが幸せになりたいと願っている中、桜子ちゃんはいつでも駿の幸せを考えていたように感じます。

過去の回想、バレンタインデーの日。告白すればいい、伝えなければわからないと駿に話している桜子ちゃん。きっとこうしていつも駿の隣に立って、自分じゃない誰かを見つめる駿をずっと見てきたんだろうなと。そうして叶わない思いをずっと抱えた駿に対して、叶わない思いを抱えていた桜子ちゃん。そんな彼女に対してデリカシーゼロ橋本駿はお前にはわからないよと言い放ちますが、あれ、マジで最低ですよね。最低だよ駿、そういう所だぞ。そしてここ、劇場版では桜子ちゃんの表情見えません。原作では何とも言えない複雑な表情をした桜子ちゃんの表情を見ることが出来ましたが、劇場版では足元しか映っていません。泣きました。

夜の海まで実央が桜子ちゃんを追いかけて来たシーン。原作ではこの直前にバレンタインデーの回想が入っていましたが、劇場版では初詣の回想が入っており幼い二人が結婚の約束を交わし小さな手を繋いでいる。その場面から現実に戻り実央が桜子ちゃんの手首を掴む。

上手すぎませんか?

原作でも実央は手首を掴んでいましたがその直前に初詣の描写を挟むことによって、誰も桜子ちゃんにとって駿の代わりにはなれない、彼女が一番引き止めて欲しい相手はあの時手を繋いでいてくれた駿だった、っていう事が強調されると思うんです。そして桜子ちゃんは駿に我儘を言った、好きじゃなくても一緒にいて欲しいと言ったと発言してますが、このセリフ実際どの時点で言ったのか分からないのがしんどいんですよね。結婚式前に言ったのか、結婚式騒ぎの時に言ったのか(この線は薄い、有り得ないと思ってます)。何にせよ、結婚式騒ぎの時流されようとしている駿に対して本当にこのままでいいの?と言ったのは誰でもない桜子ちゃんなんです。桜子ちゃんにとってはこのまま結婚し既成事実でも作ってしまえば好きじゃなくても一緒にいられるという状況が出来上がったと思うんです。でも彼女はそれをしなかった。ここからは私の妄想100%なんですが、桜子ちゃんは駿から、駿自身から自分を選んで欲しかったんじゃないかな、と。例え自分の事が好きでなくても、流されただけの結婚だとしても、駿の意思で自分を選んで欲しかった。だから、もしかしたら、本当にこのままでいいの?と桜子ちゃんが聞いた時、駿が「いいよ」と言えば二人の関係はまた違っていたかもしれない。そう、私は妄想しました。

駿のことを一番に考えて行動する桜子ちゃん、本当に本当に大好きです。(結論)

原作との違い

どんなものでも避けられないのが原作との違い。これはエトランゼでも避けられずカットされたシーンやセリフが沢山ありました。カットされた中にはやはり残しておいて欲しかったと思うシーンやセリフがありましたが、駿と実央の物語を原作を知らない人にも分かりやすく、且つ伝えたいメッセージを残しながらという点を踏まえればとてもよく纏まっており上手く構成された59分だと思います。

終わりに

ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば最大限の感謝を。普段は語彙が消し飛んでいるオタクをしている身ですので上手く書けていたのかは分かりませんが、ありがとうございます。試写会や先行上映を観た方も、これから観るよという方も、映画で初めてエトランゼに触れるよという方も、どんな方でも何度観ても楽しく切なく素晴らしい作品であると私は思います。また、ここで書けなかった駿と実央についての話も別の場所で書けたらいいなと思っています。書きたいことが多すぎる……。

最後に、劇場版作製に関わってくださった方々、エトランゼシリーズを生み出してくださった紀伊カンナ先生に感謝を込めて。 



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