春は貝

貝:貝が好きだ。
蛤も浅蜊も蜆も牡蠣も帆立も、みんな好き。すごく好き。
貝特有のぐにゅっとした食感が苦手だとか、形状が気持ち悪いとか、牡蠣の断面が無理とか、磯臭くて嫌とか、あさりの砂を噛んだときの不快感が忘れられないとか、牡蠣に当たる恐怖がぬぐえないとか、嫌いな人にはとことん嫌われる貝類だが、そういう人はその人なりの価値観を大事にすればよい。
ただ、これだけ嫌われる要素を持ちながら、魚屋の店先から排斥されないところに貝類の強さが見て取れる。

貝の魅力はいろいろあるが、その一つに唯一無二の存在感がある。冒頭で挙げた貝類を見てもそれは確かだ。形こそ似ていても、蛤と浅蜊は違うし、浅蜊と蜆も違う。明確に違う。
貝に特別な愛情の無いサラリーマンだって、定食についてきた味噌汁の具が浅蜊か蜆か間違えることはない。そうでなければ、日本中の定食屋で「お、蜆の味噌汁か。二日酔いには助かるなぁ」なんて会話が聞こえてくるはずがない。
牡蠣に帆立の代役は務まらないし、その逆も然りだ。個性派ぞろいだからこそ嫌われるし、その個性によって愛される貝たち。多様性の時代と言われて久しいが、その難しさと魅力を貝たちは体現している。人は今こそ貝の教えに耳を傾けるべきだ。
例えば、「仮にその個性ゆえに相手を傷つけることがあったとしても大丈夫。自分本来の持ち味を大事にしていれば、分かってくれる人はいる」そう牡蠣は教えてくれている。
蛤のメッセージはさらに強力だ。蛤の貝殻は、自身以外とは決してかみ合わないことから、平安時代に「貝合わせ」という遊びが生まれている。そう、蛤はこの世界にはどんな人にもベターハーフが存在することを、身をもって提示しているのだ。
ただ、この説、他の貝からはまゆつばものとの声も上がっている。浅蜊や蜆も、「われわれだって他の貝とは合わないはず」というのだ。しかし、蛤サイドはいたって冷静で「浅蜊や蜆では貝合わせには小さすぎるでしょ」とにべもない。
同じ貝類でありながら「他とはかみ合わない」という特徴を真っ先に打ち出し、まんまとひな祭りの宴席で「潮汁」の席を勝ち取った蛤について、貝たちの間ではキナ臭い噂が絶えないと伝え聞く。真偽のほどはともかく、蛤は今では立派な「夫婦和合」のシンボルだ。

さらに、貝たちは人類にこう語りかけている。「恐怖で殻を閉じてはいけない。自らを理解してほしいと思うなら、まず自分の殻を開くことだ。さすれば世界に光が溢れていることに気付くであろう」と。

春、人々は貝たちの献身に、箸を片手に応えなければならない。それこそが貝たちへの正しい報い方なのだから。貝特有の複雑な味わいは、貝たちが口の中で発する喜びの表現そのものなのだ。

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