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職業訓練校木工工芸科という所(6)

六月に入ると、私たちはノミの訓練を始めた。ノコギリが使えれば、ホゾ組みの凸部を作ることが出来る。ノミが使えるようになればホゾの凹部を作ることが出来る。これにて私たちは最も単純な木組みである二方胴付きをようやく作ることが出来る。

扱うノミには大ざっぱに二種類あり、まずは大入れノミ(または追入れノミ、読み方はオオイレが一般的?)。これは私たちがノミと聞いたときに普通に想像するものと考えてよく、柄の先に平べったい刃が付いている。
もう一つが向待(むこうまち)ノミ。大入れよりも幅が狭く、肉厚に出来ている。刃部の断面が縦長の長方形になっているほど肉が厚い。これは狭くて深い穴を掘るためにこのような形をしているそうで、こちらのノミがホゾ穴を掘るときの主力になる。

その他にもいくつかのノミの種類があるのだが、ひとまずはこの二本を使う。もちろん様々な仕口を覚えるにつれて、変わった形のノミもたくさん登場してくるが、それは後の話としよう。

加えていえばノミには叩きノミと突きノミという分け方もある。これまで書いてきたのは叩きノミで、玄翁(げんのう、トンカチの事)で柄を叩いて木を削る。そのために柄の先端には金属の輪っかが付いている。突きノミとは彫刻刀のでかいものと考えてよいが、今のところは使わない。

ノミを使うにあたって最初にして最大の障害は、研ぎが難しい事ではないかと思う。なにせしのぎ面が小さい。よほど習熟しないとすぐに“まるっぱ”になってしまって、先生にグラインダーをかけてもらうことになってしまう。

私はカンナ刃の研ぎにはそれなりの自信を持っていたのだが、ノミを数本研ぐうちに、すっかり自らの思い上がりを悟らされてしまった。正直に言えば未だに研げない。ノミを始めた数日のうちに集中的に研いでみたのだが、これは短期間で完成するものではない。最低限形になったところで見切りを付け、後はノミで穴掘りの訓練をしながら研ぎの腕を磨いていこうと決めてしまった。

あとがき
鉋の刃研ぎから始まった私たちの訓練も、いつのまにやら三ヶ月を過ぎてしまいました。最近は私たちも穴掘ってみたり木を組んでみたりとそれらしきことができるようになってきました。夏の終わり頃には何やら引き出し小物の類を作ることになるでしょう。

それにつれて私の中には心配なことが頭をもたげてきます。これは実は、木工で行こうと考え始めた頃からの漠然とした心配事で、つまりは“デザイン”の問題です。

私は自分の手先の器用さにはある程度の信用をおいておりますので、真摯に訓練を重ねるならば大抵の加工技術は会得できるであろうという確信を持っています。しかし、どこかの家具会社にでも就職して与えられた作業をこなしていくというのならばいざ知らず、独立自営でいこうというのが私の当面の目標です。どうしても自ら思い描き、形にするところまでをこなせるようにならなければなりません。これは私という人間にとっては未知の領域です。


どうやら、湯水のように湧き出るような創造性は無いであろうというのが私自身の結論です。それでもお客さんの依頼に応えていけるだけの構成力は身につけておく必要があるだろうと、学校から帰った後にはなるべく苦悩する事にしています。

最近考えていたのは、文化的背景からまったく切り離されたデザインというものは成立しないんじゃないかということです。あったとしてもそれは砂上の楼閣のようなものであり、底の浅い薄っぺらなものになってしまうんじゃないか。作ったものが、たった一個で独立して存在するということはあり得ないでしょう。それは必ずどこかに置かれます。たとえば、いつの日か私が作ったとした“何か“は日本の家の中、風景の中、この国特有の文化の匂いの中に置かれます。

すると、単体で優れたデザインという事が、あり得ない、或いはあっても意味がないのではないかという考えに至る事が出来ます。周りとの調和が取れていないようだと、それはやはり美しいとはいえないのじゃないかと思えるのです。それじゃあ、私たちの文化的背景とは何ぞや?と言われると今のところ私はかなり曖昧な映像しか頭の中に浮かべることができませんが。

そんな中で私が最近思いついたのは、最低限、伝統的な手工具で作ることができる範囲のモノというのは、この国が本来持っているデザインの範疇に収まるんじゃないかということです。

これら手工具達が、いつの時代もこの国の消費者の要求に応えるべく発達してきたとするならば、その手工具で作ることが出来るモノは必然的にこの国の文化的背景に調和するようにデザインが制限されるのではないか。

これらはちょっと乱暴な論法だとは思っているのですが、私はデザインというものを考えるにしても、やはり手工具はなるべく大事にしていきたいなと目論んでいるのです。ただしこれが主義に陥り、機械の活用をまったく考えないということになるのはいくらか見当違いにも思えます。難しいところです。

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