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世の中が陰気なら、上に立つ者は陽気になさりなされ(『女子の武士道』より)

大正7年(1918年)から二年に及んだスペイン風邪のパンデミック、
大正12年(1923年)の関東大震災、その6年後の昭和4年(1929年)から2年あまり続いた世界大恐慌、
そして、昭和16年(1941年)に勃発した太平洋戦争と、
祖母が生きた時代は、凄まじいものがありました。

明治22年(1889年)生まれの祖母は、スペイン風邪のころは30歳、
太平洋戦争のころは50代前半です。
人生半ばにあたる20年あまりの年月を、非常に不安定な社会情勢の中で生きていたことになります。

祖母は子育てをしながら、働きどおしでした。
ちょうど祖父が事業を興し、さらには政界へも進出したこともあり、
事業においては、かなりしばしば祖父の代役をつとめ、
かたや政治家の妻として、ひたすら祖父を支えました。


「大借金を抱えるのがなんといっても恐ろしい。かといってあまりに縮こまるような商売ではお給金を払えない。こういうときだから少しのお給金で辛抱してもらいましたけど、その分、クビになるようなことがないようにしっかりせねばならなかった。まことに難しいこときわまりなかったですよ」
 けれど祖母はそんな心のうちを見せることはありませんでした。
 武士の礼儀として、不安や悲しみなどといった負の感情はけっして表に出さないようにしなければなりません。このいましめは上に立つ者ほど厳しくなり、たとえ命の危険にさらされたような状態でも、平成を保っていなければならなかったのです。

(中略)
「人の上に立つ者も親と同じで陽気でなければなりません。陰気な世の中で、上の者まで陰気な顔では、下の者はみないやになってしまいます。世が暗ければ暗いほど明るい顔をするのです。明るくしていればおのれの心も下の者の心も、おのずと明るくなってくるのだえ」

          (『女子の武士道』・「祖母の言葉四三」より引用)
                    


このところの世情不安のせいか、不意に、祖母が生きた大正から昭和初期に至る激動の時代をふと思うことが多くなりました。

「近代化」の明治の世にありながら厳格な武家の躾を受けた祖母の魂が、真に覚醒したのは、その時だったのではないかと思うのです。

30代から50代前半という、女性が最も美しいともいえる「女盛りの時」に、世相が極めて暗いというのは、どうにもやるせないような感じがします。

けれど私には、たとえ満足にお化粧も出来ない、あまりおしゃれも出来ない状況にあったとしても、私の中に立ち上がる祖母の姿は、極めて美しく感じられるのです。

固い決意を以て、この難関を切り抜けていこうというその姿は、
しかし、しなやかで明るく、慈悲と慈愛に満ちています。

祖母が、「我」をすっかり捨て去って、いかにすれば周囲の人々を助けることが出来るのか・・・ひたすら無心に行動したためでしょう。

ここに大きな鍵があります。

不安や恐れに駆られて物を買い占める行為は、目に見えないものをいっさい信じられない物質主義の権化になっているようなものです。
物に頼ると、必然的に、不安は大きくなります。疑心暗鬼になるからです。
「これを奪われたらどうしよう? たくさん持っていることを知られないようにしなければ!」
と、そんなところです。

しかし、最低限の自衛のために、そして何よりいざとなれば分かち合うため少しずつ備蓄していき、あとは「必要なものは必ず天が与えてくれる」という見えない力を信じることができれば、心はしだいに落ち着いてきます。
「なんとかなる」という、理由のない自信が生まれるからです。

いま、多くの国が高い壁を作って、互いに警戒し合いながら暮らしています。この状況は、人の心を病ませ、生きる力を奪いかねません。

もし、自分自身と、自分の大切な人を守りたいと思うのであれば、互いに助け合えるよう、まずは自分から壁を作らないことでしょう。

分かち合いの心、これこそが「和」です。

「和」を尊びながら歴史を築いてきた私たち日本人が、分かち合いのあり方を示していきたいものです。


写真は、お水取りで有名な東大寺二月堂です。


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