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31 梅すだれ 御船/木花薫
ここ数日は涙も枯れて窓の外を眺めてぼんやり過ごしていたお滝。昼になると腹が減った。お桐が炊かないなら自分が炊くしかない。久しぶりに一階へ下りると鍋に米と水を入れた。
(ご飯を炊くの、何年ぶりだろう)
雑賀で握り飯屋を始めてからご飯はお桐が炊いていた。もう何年もご飯を炊いていないことに気付いたお滝は、お桐を御船に連れてきたことが悔やまれてならない。御船に来てからのお桐は厨房にこもって料理をしてばかり。雑賀ではお孝と遊んだり村の人たちと話したりしていたのに。
(雑賀へ帰ろうか)
マサがいなくなった今御船にいることに疑問を感じるお滝である。しかし一体どうやって帰るというのか。女二人が船に乗っても、男ばかりの船でどんな目に合うか。恐ろしくてそんなことはできない。
(父ちゃんが迎えに来てくれたら)
とも思うがタカベはもう船を持っていないし乗ってさえいない。今は船大工をしているのだからとんだ夢物語だ。
(これからどうしよう)
溜め息を竹筒へ吹きこんで火を起こした。
ぐつぐつと煮えていく米の横でぬか床から取り出した茄子を切っていると、店に誰かが入って来る気配がした。
「きょうはやすみです」
と座敷へ行くと小佐井の部下、田北がいた。
「お桐ちゃん、お滝ちゃんは元気とか?」
田北はお滝が寝込んでいると聞きつけて様子を見に来たのだ。
マサが死んで天地がひっくり返るほどの衝撃をうけたお滝は地獄に落ちた気分でいたけれど、お桐と見分けがつかないいつもの間違いに変わらない日常を感じた。こうやってマサがいなくても変わらず生きていくことになるのだと諦めの笑みを口元に浮かべるお滝であった。力なく「わたしはお滝よ」と返すと、
「起きとっとか。よかよか。これは小佐井さんからと」
と田北は木綿の布に包まれた柔らかなものを差し出した。
「豆腐と。これを食べて元気出せ」
旨いものに目のない小佐井は、御船の北にある甘木の農家の作る豆腐を田北に買いにやらせた。とろける旨さで評判の豆腐だ。マサが死んで臥せっているお滝がこの豆腐を食べれば元気になるだろうと思ったのだ。
「とうふ?」
お滝は大豆の絞り汁で作る豆腐を食べたことも聞いたこともない。
「匙ですくって食え。うまいと。これはおいからと」
田北は懐から布に包まれた木札を差し出した。
「早吸日女様の護符と。マサのことは残念と。でも変なこと考えたらあかんと」
早吸日女とは、上野水軍の本拠地である佐賀の関にある神社の守り神である。佐賀の関のある豊後と海の向こう伊予の国の間の早吸の瀬戸、現在豊後水道と呼ばれる海峡は潮の流れが速く、海底には三町の深さに削られた海食釜がある。そこに二千年前大蛸が住み着いた。大蛸は神剣を抱き海を鎮めていた。その大蛸から神剣をもらい受けたのが佐賀の関の海女の姉妹黒砂と真砂である。この神剣をご神体とする早吸日女は豊後水道の平安維持を司る上野水軍の守り神である。
父親も船乗りでマサも船乗りであったお滝とお桐の姉妹に、元々船乗りであった田北は親近感を持っている。小佐井もそうである。マサが海で死んだと聞いて何かせずにはいられなかった。
小佐井から豆腐を頼まれた田北は、神剣を海の底から取り出した海女の姉妹を思い出し、紀の国から来た不憫な姉妹を早吸日女様にお守りいただこうと思いついたのだ。
「マサは海の神さんとこへ召されたと」
マサは死んだとわかっているお滝だが、人から言われると絶望を突き付けられる感じがする。誰一人として「もしかしたらマサは帰って来るかもしれない」と言わない。その現実がお滝の心からマサををえぐり出す。
痛烈な胸の痛みを感じるお滝は背を丸め、うつむいたまま護符を受け取ったのだった。
つづく
次話
前話
お滝とお桐の物語はここから
第一話(お千代の物語)
お千代を離れた肥後編はここから
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