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“ 荒野に 主の道を備え、 砂漠に われらの神のために大路をまっすぐにせよ ” イザヤ書40:3 “ イエスは言われた。 「あなた方が、この山でも、エルサレムでもないところで、父なる神を礼拝する時が来る。 まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。 神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」” ヨハネ福音書4:21-24 またエゴのない愛、ワンネスとかの欧米系スピリチュアルにかぶれた話。 ちょっと弁解も。 信
半分冗談でも。自作マントラ オーン マハー マンジュシュリー イェー ナマハ (南無金剛大乗) 文殊霊徳を本尊とする金剛大乗に帰依する(地上世界から 苦しみが取り除かれ、歓喜と光明が もたらされるように)、という意味を込めて。 文法は全然知らないけど、他のマントラを見ると、「マンジュシュリー」と「ナマハ」をくっつける場合は、「マンジュシュリー イェー ナマハ」となるのかなぁー思われ(間違っていたらどなたか教えてください)。 起床時の短時間の瞑想として、マントラ瞑
卑しい免罪の弁です。 「愛、愛他、慈悲、、」に触れることについて しばしばnoteにしてますが、エゴのない愛、愛他利他、慈悲、四無量心、隣人愛に関して述べるのは、本当に口が虚しくなりそうです。 自分が自己中で卑しい人間だというのは、自覚しているだけでなくて、人からも指摘されるものです。 自分の人間性とは縁遠いテーマについて投稿するのは、つらいことです。 しかしフッとした思いつき・衝動があって、やむにやまれずnoteにしています。この思いつき・衝動が全て悪いです。私のせ
春の大三角(アークトゥルス、スピカ、デネボラ) この瞑想する人noteでは仏教の『智慧』、『慈悲』という用語を剽窃して用いています。 この瞑想する人における「智慧」とはどう考えればいいのでしょうか? 今回のnoteは結果としては、「エゴのない愛」「自己超越」といった内容があるため、欧米キリスト教圏のよくあるスピリチュアルに寄った話になっているかもしれません。 「内なるものへ・超越」の欲求と「智慧」 「内なるものへ・超越」の衝動・欲求、その歓喜などが、この瞑想する人n