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神社で願い事をしても良い (&願い事を叶えるコツ)

タイトル、何を当たり前のことを?
と思われるかもしれない。


私は、昔は神社に行ったら
それなりにお願い事をしていた。

でも、ある時期からお願い事をしなくなった。


理由は、

「神社はお願い事をする場所ではなく、神様に感謝する場所」

だと思ったからだ。


それは私が悟ったことではなく、誰かが言っていたことだ。

でも、確かにそうだと思った。

私が正しいと思ったスピリチュアルの教えはそういうものだった。


でも、個人的なお願い事はしなくても
世の中の平和や地域の平和を願うことはあった。


そして、私はスピリチュアルの世界からは距離を置くようになったが
やはりそういう概念は大切にしていたので、
神社やお寺に行って個人的なお願い事をすることはほとんどなかったように思う。 

思い返せば、お願い事というか、辛くて悩んでた時に神様に助けや答えを求めたことは数回あったので、
そういえば、あれは神頼みだったのかもしれない。

あとそういえばと、思い出したけど
スピリチュアルに傾倒してた頃の一時期、お願い事をすることに寛容な方に向いたことがあったけど
でも自分本位なお願い事をしてしまったことがあった。

なので全くなかったわけではない。


あと、おみくじは大好きで
そんなに頻繁には引かないけど、たまに引く時が楽しみだった。

いつも、その時々に見合う言葉や、どんぴしゃなメッセージをもらえるから。
元気をもらえたり励まされるから。


あとは、そういったスピリチュアルの教え以外にも、
お願い事をする行為に違和感を覚えてしまった…という理由もある。

神様に願い事をして叶えてもらったことは、私自身の力によるものではないし、
私自身の本来の運や人生設計に背いてはいないか?とか。

だったら、下手に欲を持たずに、あるがままの自分自身の運や力で生きたいと思った。


そして私はたぶん、できるだけ “綺麗” な人間でありたかったんだと思う。
あまり強く欲を持ちたくなかった。

欲を出して神様に願い事をすることはいけないことのような気がしていた?…ように思う。

そんな気持ちは、本当にただの無意味な綺麗事だったかもしれない。


・・・・・・

そして、その思想や生き方は
決して正しい在り方ではない。

上記に書いたことは私のことだけど
こういう人、いませんか?

別に、こういう思想が間違ってるわけではないとは思う。

感謝の気持ちを持つことは大切だ。


でも、

「欲」は持って良い。

「欲」といっても、決してエゴイズムではないもの。

人を不幸にするものではないもの。


そして、願い事は積極的にした方が良い。

願い事について、以前少しだけこの記事で取り上げたことがある。


この時にスミレさんは、願い事の大切さやコツを教えてくれているけど

この時以外にも、スミレさんは私にけっこうそういう願い事に関する話をしてくれたことがあって
そんな話を聞いてるうちに、だんだん
「願い事ってしても良いんだ」と思うようになり、
それがさらに
「願い事はした方が絶対に人生にプラスに働く」
という認識になってきた。



願い事ではなくとも、

「自分の人生の目標や希望などは、まず言葉にすることが大切」
というとわかりやすいだろうか?

目標を掲げたり、具体的に言葉にすることで、その目標に向かうための一歩が踏み出せる。
言葉にしないよりも、言葉にした方がスムーズにスタートを切り、目標に向かうことができる。


そういったように、願い事や叶えたいことがあるなら、
ちゃんと口に出すことが大切だ。

別に声に出せというわけではなく、心の中で思うだけで良いのだが

願い事を思わないのではなく、
「願い事を思うこと」

本当は叶えたいことがあるのに、それを胸のうちに秘めるのではなく、出すこと。

「自分の願望を認識すること」
「願望を持つこと」

そして、その願望を神社で願うと
それを聞いた神様が叶えようと応援してくれる。

神様だけではなく、自分の守護存在とか、いろいろな魂が応援してくれる。


ただ、それはエゴイズムや自分本位ではない願い事。
自分も周りの人も幸せでいられるようなもの。

「クリーニングのコツ」の記事でも書いたように
プラスに生きやすく、自分の周りや一緒に喜べる人がいる願望や願いほど、叶いやすい。


そして、神社やお寺で願い事をして叶ったら、必ず「お礼参り」をすること。

お礼参りはとても大事なことだ。



自分本位な願い事がどんな願い事かというと
たとえば、恋愛の願い事で例を挙げるのがわかりやすいと思うが

不倫をしていて、でも相手とちゃんと正式なパートナーとして結ばれたい場合
「彼が奥さんと離婚して、私と結婚できますように」
という願い事は、相手の奥さんや子供など家庭を不幸にするし、エゴイズムな願い事だ。


また、ただの片想いの恋の場合でも
「隣のクラスの山田くんと両思いになって恋人同士になれますように」
という願い事は、相思相愛の場合に限り有効で
そうではなく、山田くんが特にあなたのことを好きではなく、恋人としての縁がない場合は、
自分本位な願い事となってしまうため無効である。



昔、京都の鈴虫寺に何度か行ったことがある。

鈴虫寺は願い事がよく叶うと言われるお寺で、地元の京都の人からも根強い人気だが
全国から大勢の人が訪ねて来て、連休中などで凄い時は、お寺から約1kmはある松尾大社駅まで行列ができるのだそうだ。

鈴虫寺の中へ入ると、まず書院へ通され、お茶とお菓子をいただきながらお坊さんの説法を拝聴する。
個人的にその説法は面白いのだが、その時に、お願い事をするコツを教えていただけた。


恋愛の願い事をする時は、まず
「私に見合う人とご縁がありますように」
というのが大切だと仰っていた。

間違っても「芸能人と恋人同士になれますように」とは願わないこと。
絶対に叶わないから。(よほど身近で縁がある人でない限り)

そんなこと言われなくてもわかるよ!と思ってしまうが、案外いるらしい。

まあ、芸能人とまで言わなくても
現在片想いの人が自分に見合った人でないなら結ばれないし、そういうことだと思う。



また、いきなり「恋人ができますように」
と願うのではなく

「私に見合った人と出会えますように」

と、まず願う。

そして叶ったらお礼参りに来て、

そして次は、

「彼と仲良くなれますように」

と願う。

それが叶い、仲良くなれたら
またお礼参りに来て、

そして、

「彼と両思いになれますように」
「彼と恋人同士になれますように」

などと願う。

そして叶ったら、お礼参りに来る。


こうやって段階を踏んでいくと叶いやすいらしい。


それって何かわかる気がする。
たとえば、もし私が願い事を叶える側の立場だったとしても、そういう願い事の仕方だと叶えやすいような気がする。

たぶん、鈴虫寺に限らず、
そういった無理のない願望を、無理なく順序を踏んでいくと、叶いやすいように思う。


鈴虫寺の話を思い出したので
もし願い事を叶えるコツの参考やヒントになったら幸いです。


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私はこれからは、願い事をすることに対して
もっと自分自身に受容していきたいなと思う。


願い事は、

自分が幸せであるために、自分の幸せのために
自分の周りの人も幸せであるための、
より良い未来を創るためのもの。

それは決してエゴではなく…。


願い事はしても良い。

むしろ、

願い事はした方が良い。



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