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デカローグ5.6 5/18

「ある殺人に関する物語」

無常を感じた。もし、あの時こうしていればという出来事があって、でも、時は戻せないから死んだ人は生き返らない。また、処刑日に検事が弁護士に子供が生まれたことを祝福するのも、誰かが死んでもどこかで新たに子供は生まれて世界は続いていくと思わされた。
主演の福崎那由他くんの演技がすごく普通の青年らしくて、それゆえにどこかで道を間違えてしまった悲しさが伝わってきてよかった。処刑直前から吊るされるまでの絶叫は胸が痛くなった。

「ある愛に関する物語」

「愛」はそれぞれがそれぞれに歪んだ依存心を持つ。みんなたぶんそれを愛だと思っているけれど、本当に欲しいものではないから渇き続け拗れていく。どうしたら彼らは幸せになれるのだろうかと思わされた。


以下、ネタバレ含む感想と考察


「殺人」はそもそもヤツェクが友人と酒を飲まなければ、友人がトラクターを運転するのを止めていれば、その時妹が家の外にいなければ、ヤツェクが都会に出てくることはなかった。そうすれば、運転手を殺して、死刑になることもおそらくなかった。

ただし、都会に出てきてから人を殺そうと思うに至った経過については描かれない。殺した次のシーンは裁判が終わり、死刑が決まったところだからだ。金が欲しかったのか、人生自体に自暴自棄になっていたのか。そこは観る側の解釈に任せた余白なのか、なんなのか。「愛」にも共通することだが、人物の心理描写が少なく、なぜ彼・彼女はその行動を起こしたのか説明されない。観る者は傍観者として置かれる感じだ。

さて、それぞれの役についてだが、ヤツェクは石を投げ込んで事故を起こしたり、鳩を散らしたり、ケーキのクリームで遊んだり、チンピラには違いないけれど、基本的には普通の青年なのが、実際に事件を起こす人は異常者ではなく、なんらかの欠けが生じてしまった普通の人が多いという現実も感じた。
弁護士は死刑制度反対、と面接で言ってしまったり、死刑に動揺したり、作中でも言われていたが、あんまり弁護士に向いてなさそうだと感じた。守る側とはいえ、人の生き死にを扱う仕事だ、彼は訴訟とか企業系の弁護にまわるべきな気がしてしまう。もっとも、当時その手の裁判があったかどうかは不明だが。
余談だが、調べてみたところ、今やポーランドでは死刑は廃止されており、日本はまだ存在する。相変わらず遅れてるなとちょっと思った。いい加減廃止してもいいと思う。死刑より少しでも働かせられる無期懲役・終身刑のほうがお金がかからないというデータもでているし、誰のボタンで殺したかわからないようになっているとはいえ、自分の手で殺す体験は精神衛生上良くなさそうだ。

一方で、処刑施設で弁護士の子供誕生を祝福したり、人が死ぬことを日常の一部として処理できるベテランの検事が対照的で興味深い。

「愛」はマリアはトメクを息子の代わりとして愛し、トメクはマグダを女性として愛し、マグダはたくさんの男に愛し愛されることで自分を保っている。
しかし、マリアは二度と息子が自分の手から離れないようにトメクを愛す。だから、それを邪魔するマグダは敵と冷たくあしらう。トメクは自分が両親から愛されなかったことからわかりやすく男性たちと愛を育むマグダに女性を感じ、監視したり郵便物を入れたり、盗んだり、牛乳を届けに行ったりする。マグダはたくさんの男と関わることで自分は愛される人間なのだと思い込もうとする。
強いて言えばマグダが一番普通の人間だと思う。ストーカーを容認するのも愛として受け取ってしまうのだと解釈できるので。
トメクはあれだけ近づこうとしていたのに一緒にカフェに行って、関係を持ったら失恋というのだから、だいぶ意味わからない行動を取っている。あくまで遠くで眺めて近づきたいと思っている状態が楽しくて、彼女が振り向いてしまったら現実に向き合うことになった、という一種の蛙化現象なのだろうか。

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