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「多様性のレッスン」(『このあいだ』第7号 2021/4)

スティーブン・B・ハード、上京恵訳『学名の秘密 生き物はどのように名付けられるか』原書房、2021

 お気づきのことと思うけれど、ぼくは先の文(「クリニックの診察券」(『このあいだ』第7号 2021/4))で一般的に有名になることについて若干の疑問を呈しながら、引き合いに出したのはまごうことなき有名人ばかりだった。

 しかしこの本に込められた著者の思いは、「無名」の存在の発見と顕彰、そしてその豊かさの保存への情熱である。有名人にまつわるエピソードを語るかと思わせて(原著のタイトルの直訳は『ダーウィンのフジツボ、デヴィッド・ボウイのクモ』)、広く知られてはいないが歴史にその名を残した人物(マリア・シビラ・メーリアン:17世紀を生きた博物学者・画家・科学者にして探検家。マージョリー・コートニー=ラティマー:シーラカンスの発見に功のあった博物学者・科学者)の物語を映画の予告編のように展開し、さらにその先に進んで、新種の発見の際には必ず随伴したはずの、名の記録されていない現地住民や無名の同行者たちの存在にスポットライトを当てる。

 著者はアメリカの進化生物学者・昆虫学者。科学者に向けての文章書き方指南のような本も書いているようだが、たしかに本書は読み物として非常に面白い。しかし文章の巧みさ、博識と多数の文献への参照は、知ろうとする物事への誠実さに裏打ちされている。もはや創造論は、精肉売り場に陳列される肉類ははじめからその姿で存在し、魚の切り身はその姿で海を泳いでいるというわれわれスーパーマーケットの子どもたちの流出をとどめることはできないだろう。誠実さは従順や功名心の影にあるのではなく、自己とその愛するものの尊重の上にあって、それ故にこそ他者を発見し得る人物の中で花開く。全知全能の神にかしずくふりをしつつ、生も死も新商品も、何でもスイッチで短絡的にひねり出せばいいと思い込むとき、私たちの脳は打ち上げられた砂浜の上で、朽ちたプラスチックごみのように干からびている。

 メイベル・アレクサンダーとは誰か。それについての考察が本書の最終章(エピローグを除く)である第19章のテーマである。

 メイベルはWikipediaに記載されていない。夫であるチャールズ・ポール・アレックス・アレクサンダーであれば、英語版のほうに控えめな記事があるのを発見できたが、妻の名はそのページの中に見つからなかった。本書のおかげで、やがては記載されることになるかもしれない。

 メイベルは1894年に生まれ、若い頃に秘書になる勉強をし、イリノイの大規模な研究所での秘書の職を得た。そこで夫となる人物と出会う。彼はガガンボという昆虫の研究者で、その死までに実に1万1000以上の新種を発見し記載することになる。

 ガガンボというのは、日本でもよく見かけ、誰もが「でっかい蚊」と勘違いし、刺されることを恐れて避ける、あのゆらゆらと飛んで、落とせば簡単にバラバラになる虫のことだ。ハエ目の昆虫で、蚊ではなく、刺したり吸血したりすることはない。

 夫妻には子どもがいなかったそうだが、メイベルはその死までの62年間、夫と共にガガンボを採取・収集した。夫がアクセスしやすいようにあらゆる標本にインデックスをつけ、資料を整理し、夫の原稿の筆記とタイプをし、雑誌の編集者に電話をした。車の運転もした。

 しかしもし夫が妻の内助の功をたたえ、ささやかな謝意をその生涯の巻末に述べるにとどめただけであれば、夫は「吸血するでっかい蚊」であり、Wikipediaには載っても本書へ記載される対象にもならなかったはずだ。

 メイベルは秘書の仕事をしていた頃から発揮したであろう、分類・整理や諸連絡の能力を存分に発揮して、その仕事を楽しんだ。夫と同じようにガガンボを愛さなければとてもできた仕事ではないと思う。彼女なしには1万種以上の新種が記載されなかったというより、彼女がそのほとんどの実務を担ったのである。

 夫には1000本以上の論文があるが、彼は晩年に近くなってやっと17本の論文をメイベルを共著者とした。それまでにも新種のガガンボに彼女に因んだ学名をつけて献名している。しかし科学者の命である論文の掲載にあたって彼女を共著者とするまでは、夥しいガガンボの新種を発見したとしても、妻のことはいまだ見出していなかったのではあるまいか。科学者としての夫の誠実さが、妻の最後の日々にあたってようやく本当に花開いたのだ。反省して改めることのできる能力こそが、人間の精神であり、若さだ。

 種の多様性の保護とは単なるお題目ではないのは当然だが、単純にこれこれの原則を守っていれば、これまでのあり方を持続させられる、というものではないはずだ。それはこれまで見過ごされてきた価値に気づき続けるということに他ならない。多様性を認めるというものはなかなかに難しいことなのではないか。光のスペクトルに境目がないように、「隣人」の価値には気がつきにくい。もし形にこだわるばかりなら、自由な働き方や、新しいお金を手にしたところで、俯瞰してみれば、それも富の匂いのするフェロモンに導かれて、死骸に群がる一筋の働きアリの行列かもしれない。

 隣にいる人物を失わないこと。手元にある1杯のコーヒーの源流を辿ること。自分が飛び出した囲いに留まる他の生物種の習性とそのなぜを心に留めること。命を支える多様性を1人で解くのは難しい。だからこそ、大勢が1人のように振る舞うことは避けなければならない。

 ちなみに本書236ページには誤植では済まされない重大な誤りがある。「メイベル・アレクサンダーのハナアブ」とのキャプションの上に、どこから見ても猿にしか見えない図が載せられているのだ。もしかすると、まずこのレベルの違いから気付けるかどうかを試す多様性へのレッスンかもしれないが、速読でもやっていなければ見落とすことはない。

 ぼくはパスした。次のテストだ。

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