「人魚」はトップアイドルの「夢」を見るか? 〜水中キャンディ、その可能性を信じて〜
はじめに
この記事は『アイドルマスター ミリオンライブ!』における楽曲『水中キャンディ』の解釈記事です。『水中キャンディ』については以前にこちらで解釈記事を書いたことがありますが、本記事はその続き、あるいは一般化のような立ち位置とし、『水中キャンディ』の可能性を開くことを目的とします。
最低限、『アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ』(以降"ミリシタ")のメインコミュ72話『大人だから、こそ』(以降"メインコミュ")、ならびに楽曲『水中キャンディ』の内容をご存知の方であれば本記事の主旨はご理解いただけると思います。『水中キャンディ』の歌詞は必要に応じてこちらをご参照ください。
もし以前の解釈記事に目を通していただいていれば本記事を理解する一助になるとは思いますが、必須にはいたしません。ただ一つ前提として、本記事では以前の記事の主旨を引き継ぎ、歌詞に出て来る"水中キャンディ"を「憧れ」や「願い」の象徴と見なして進めます。ここから先は特記のない限り、そうした「憧れ」や「願い」をまとめて「夢」と記すことにしましょう。
可能性の飴
太陽の光を浴びながら水中に浮かぶ色とりどりのキャンディ。楽曲『水中キャンディ』がミリシタに実装されてこのアートワークを初めて見た時、「なぜキャンディは水中にあるのに溶ける気配がないのだろう?」という違和感を持ちました。普段口にするキャンディであれば水の中で溶けてしまうはずです。考えてもその理由がわからず、「映えるような絵にしたくてあえて溶ける描写を省いたのかもしれない」と思いつつも、どこかその違和感を捨て切れずにいました。
後に『水中キャンディ 馬場このみ』のカードが実装されたことでその違和感は一層強まりました。覚醒後の絵にも水中に散らばるキャンディが描かれており、このみさんの手の間のキャンディに至っては溶けていないどころか微かに輝いてすらいます。
もちろん水に入ってすぐに溶け始めるわけではないかもしれませんが、『水中キャンディ』の歌詞の主人公は海辺でキャンディを拾い、溶け始めるには十分なほど水中で葛藤してから進み出しているように思います。にも関わらず、歌詞からはキャンディが溶けて焦ったり不安になったりするような姿は読み取れません。焦りはしばしば人の行動を早めるものですが、急いでキャンディを食べるような素振りもなく、むしろ溶けることを全く気にしていないかのように水中を泳いでいました。
何か水を防ぐ入れ物にキャンディが入っていたと考えることも出来ますが、仮に入れ物に入っていたとしても溶けてしまうのを完全に避けることは出来ず、周りの湿気によって徐々に溶けてしまいます。もしその入れ物に空気が入っていれば、水中で考え込んでいる主人公の手を離れて海の上へと浮かび上がっていくこともあるでしょうし、何か工夫をしていたとしてもその描写が全くないのです。どうにも不自然で腑に落ちません。
そうして考え続けてようやくそれらしい解釈にたどり着きました。水中で溶けずに輝き、人が口にした時には溶けて力になる飴。普通の"キャンディ"ではあり得ないその性質を持つ飴こそが"水中キャンディ"なのだと。
『水中キャンディ』の歌詞を思い起こせば、そこには"キャンディ"という言葉が二度登場しています。一度目は「海辺で拾ったカラフルキャンディ」、二度目は「冷たい波 溺れそうでも決して諦めない 鮮やかな水中キャンディ 食べたらほらあと少し」。一度目は"カラフルキャンディ"だったものが、二度目には"水中キャンディ"と呼ばれています。途中で別のキャンディに入れ替わったわけではなく、性質が変化したわけでもないでしょう。歌詞の主人公は手にしたキャンディの性質に気づいたのだと思います。水中に入って初めてわかる"溶けない"という性質です。
例えば、普段掛けているメガネを水の中に入れても"水中メガネ"とは呼びません。"水中メガネ"がそう呼ばれるのは、水中でこそ発揮される効果や特徴を持つからです。"水中キャンディ"も同様で、その名は飴の性質を示していると考える方が不自然さはありません。
当然ながら"水中で溶けない飴"を現実で見たことはありませんが、よく考えると「夢」も似たようなものではないでしょうか?
「そんなもの存在しない」と周りからは揶揄され、それでもいつかは叶うと信じることで現れる"可能性"。諦めそうになった時、再び口にすることで前に進む元気をくれる希望の象徴。乗り越えるべき水中では泡のようにその形を保ち、大人から子どもまで誰もが口に出来るもの。なくても生きて行くことは出来るが、あった方が人生をより豊かにしてくれる嗜好品……そんな風に思うのです。
一般的なキャンディの賞味期限が長い理由は、主な原料である砂糖や水飴がその純度の高さゆえに不純物を餌とする微生物を寄せ付けないためですが、不純物を含む水分を吸収し続けることでいずれ溶け始め、増えた微生物によっていずれ腐敗します。しかし、溶けることがなければいつまでも形と味を保つことが出来、純度が高いまま水中でも陸でも腐ることがありません。「夢」もまた、それを信じる意志が純粋なほど、まるでダイヤモンドのようにその輝きを強め保つものです。
もちろん"水中キャンディ"は口にすればなくなってしまうものではありますが、たとえなくなってしまっても、ふとした時に海底から浮き上がる泡のように、気づけばまた目の前に現れるものでもあると思うのです。最初に拾った場所が海辺なら、陸に住む誰かが作ったものかもしれません。歩き続けていればその人が見つかるかもしれないし、いつかは自分でも作り出せるかもしれない。
僕たちが人魚姫の物語を読み返す度、泡となった彼女の決意と軌跡が何度でも現れるように、『水中キャンディ』という曲を聴く度に、そこに「夢」の象徴である"水中キャンディ"は現れるのではないでしょうか?きっと「夢」はいつでも見られるし、いつからでも追いかけられる。それがこのみさんのこの言葉に表れているように思います。
水中で悩む主人公の傍らにずっとあった"水中キャンディ"。疲れた時は止まって休んで、考え込んでもいい。諦めなければ"可能性"はいつまでも消えません。
たとえ歩みが遅くても大丈夫です。元気をくれる"水中キャンディ"は、前に進もうとし続ければきっとまたどこかに現れるから。
YOU CAN (NOT) REACH.
多くの方がご存知かと思いますが、ミリシタの前身にGREE版『アイドルマスター ミリオンライブ!』(以降"グリマス")というゲームがありました。ミリシタから参加したプロデューサーの僕は記録としてしか知りませんが、グリマスの『水中キャンディ 馬場このみ』のカードは、サービス終了が告知された約一ヶ月後にゲーム内で実装されたようです。『水中キャンディ』という曲は、『人魚姫』の童話に出てくるマーメイドのような主人公が海を後にすることを決意し、「夢」を求めて陸へと踏み出す内容です。果たしてその「夢」が叶ったのかは歌詞からは読み取れませんが、「泡になり 消えること 知ってても」というフレーズは「夢」の終わり……グリマスのサービス終了のことを指しているように思えてなりません。
あの日、確かにグリマスという「夢」は途絶えました。それと同時に『水中キャンディ』を歌っていたグリマスのこのみさんも、王子への恋が叶わなかった人魚姫のように海の泡となってしまったのだと思います。では、彼女の「夢」への軌跡もそこで一度途切れてしまったのでしょうか。
人魚姫の童話は今も様々なところで目にしますが、楽曲『水中キャンディ』のモチーフになったであろう物語はハンス・クリスチャン・アンデルセン作の『人魚姫』だと思っています。その物語の最後を少しご紹介しましょう。
人魚姫に瓜二つの花嫁と王子の結婚式の翌朝、人魚姫は王子と結婚出来ないことを嘆き、船の上から海へ身投げします。人魚姫の身体は溶けて泡となるのですが、その泡はゆっくりと空へ昇って行き、そこで"空気の精"と出会うのです。空気の精は人魚姫にこう言います。
人魚姫は王子との結婚を望んでいましたが、実は結婚そのものは彼女の「夢」ではありません。彼女の「夢」は、愛してくれた人間と結婚して人魚には持ち得ない不死の魂を分けてもらい、人間と同じように死後天国へ行って幸せに暮らすことです。それが叶ったのかはこの物語からはわかりませんが、海の泡となって空気の精の世界に来た後も、人々を助けることで人魚姫の「夢」への軌跡は続いています。
グリマスの後続であるミリシタでは、楽曲『水中キャンディ』の実装と共にメインコミュが公開されました。センター公演を任されたこのみさんは今の自分と周りとを比べて葛藤しますが、過去の自分を思い出したこのみさんはステージに立って『水中キャンディ』を歌い、まるで人魚姫の空気の精のように、彼女の妹へ一歩を踏み出す元気を届けていました。このみさんのこの軌跡は、先の人魚姫の軌跡に重なって見えないでしょうか?
このみさんの「夢」は、メモリアルコミュ3にてPがイメージした「満場の喝さいを浴びて、ステージで輝く、このみさんの姿」を見ること、すなわち"トップアイドルのステージに立つこと"です。"水中キャンディ"にはその「夢」が詰まっています。
グリマスのこのみさんは海の泡となってしまったかもしれませんが、泡になることは「夢」の終わりを意味しません。人魚姫のように真心を尽くしてアイドルを努めてきたこのみさんはミリシタと出会い、空気の精のように「夢」へ向かって進み続けていたのではないでしょうか。人々を助けて笑顔にし続ければ、いつかきっと自分の「夢」へたどり着けると信じながら。
前章で"水中キャンディ"を"泡のように現れるもの"と書きましたが、『人魚姫』の中で出てくる"泡"は、海に身投げした人魚姫自身のことでもあります。故郷の海を後にして声を失い、痛む脚を押して王子との結婚を目指した人魚姫。"泡"にはそんな彼女の意志と歩んで来た苦楽の軌跡が詰まっているはずです。
実は、空気の精となって人を喜ばせるという献身的な人魚姫の姿勢は、最初に王子と出会った頃から何も変わっていません。彼女は溺れていた王子を助けて王子に再会した後も、彼に愛されようと踊りで彼を楽しませていました。
それはきっとこのみさんも同じです。思えば、彼女はメインコミュでこんなことを言っていました。
既に自分が「夢」へ向かって踏み出していたことへの気づきです。ここで注目したいのは、このみさんはただ"気づいただけ"という点です。
"アイドル"の本懐は、ステージに立って目の前のファンたちに「夢」を見てもらい、元気になってもらうことです。メインコミュで「夢」に向かって既に踏み出していたと気づいた後も、ステージに立ったこのみさんがやったことは以前と何も変わりませんでした。いつもと同じようにファンに「夢」を届けていただけです。
グリマスが終わって海の泡となったあの日から……いや、グリマスでアイドルとして最初にステージに立った時から、このみさんはファンに「夢」を届けて来ました。『dear...』をはじめ、このみさんが歌ってきた曲はそれぞれがファンに「夢」を見てもらうための表現です。それならば「夢」の象徴である"水中キャンディ"もまた、単に『水中キャンディ』という楽曲を歌うまで見ることが出来なかっただけで、このみさんとファンとの間……アイドルとして歩んで来たこのみさんの苦楽の軌跡にいつも浮かんでいたのではないでしょうか。
『水中キャンディ』の歌詞のように"ステージ"という陸の際に踏み出し、『人魚姫』の空気の精のようにどこまでも見渡せるこのみさんには、かつて自分が住んでいた海底や美しい珊瑚も見えます。珊瑚の周りには、昔の自分と同じように一歩を踏み出せず悩んでいる人魚が何かの拍子に流されて来ることもあるかもしれません。
そんな人魚にこのみさんは”水中キャンディ”を贈ります。その”水中キャンディ”の中には、まさに『水中キャンディ』の歌詞で表現されているような「『夢』を目指す決意をしてアイドルのステージへと踏み出したこのみさんの姿」が詰まっているはずです。決意の全貌を知らない人魚にその姿は見えないかもしれませんが、知らずとも口にすれば不思議と元気が出てくる。そうしてこのみさんは、人魚たちが自らの「夢」に向かって踏み出せる手伝いをしながら軌跡を伸ばしていくのです。同じく人魚たちを助けているシアターの仲間の空気の精たちと共に。
だから信じています。泡になっても途切れず、誰かを手助けしながら進んで行くこのみさんの軌跡は、いつかきっと"トップアイドル"という「夢」に届くのだと。
it's (so) me = (夢 ≒ )憧れ
「いつか〇〇になりたい」「いつか〇〇をしたい」という意味で使われる言葉に"憧れ"と"夢"があります。これらは一緒くたにされることも多い言葉ですが、少し異なる一面も持っています。
まず、"憧れ"には対象となるモデルがいます。何々という職業に就きたい、誰々と同じ服が着たい……既に存在していたり、既に誰かがなっているものを自分も欲しがる時に使われる言葉が"憧れ"です。自分自身をモデルへ近づけようとする"変身願望"と言い換えることも出来ます。
一方の"夢"はモデルがおらず、自分自身にしか実現出来ないことを指します。聴く人すべてを感動させる曲を作りたい、何億光年も離れた星で生活してみたい……"夢"にはそれを叶えるための道が開拓されておらず、"正解"もないのです。時に"憧れ"は"夢"を叶えるための手段になり得ますが、逆はあり得ません。
このみさんはPがイメージした"トップアイドルになったこのみさんの姿"を自分でも見たいと願っています。Pが見ているそれを目指すのは、既に他の誰かが作り上げたものを欲しがる"憧れ"と同じです。仮に"トップアイドルになること"が"夢"だっだとしたら、なった瞬間にこのみさんの”夢”は終わってしまいます。このみさんはトップアイドルになって何をしたいのでしょう。
『水中キャンディ』の歌詞の主人公はどうでしょうか。歌詞にはそれらしいフレーズがいくつか出てきますが、どれも抽象的です。
「いつかいつか行きたいな 夢が叶う場所へ / 声が届く場所へ」の"夢"とはどんな夢で、"声"とはどんな言葉なのかがわかりません。
「もっともっと見てみたい 海底じゃない世界を / 殻を破った自分を」の前者は"憧れ"で、後者は"夢"のように思えますが、同じくその"海底じゃない世界"で何をしたいのか、"殻を破った自分"はどんな自分なのかが読み取れません。
「夢の中 彷徨うと 知ってても」「ココロの鍵 見つからない」というフレーズを見る限り、主人公は自分の夢の形がはっきりとイメージ出来ていないように思えます。
……もしかすると、主人公は"夢"に憧れていたのではないでしょうか。明確なイメージがあるわけではないけれど、どこか今の自分に満足出来ない。だから満足出来る自分……「ココロの鍵」という"夢"を見つけに行こうと決意して海を後にした。
"夢が叶う場所"と"その場所で叶う夢"は別のものであり、海辺で拾った"水中キャンディ"は"夢が叶う場所"への道標のようなものかもしれません。もしその場所にたどり着いたとしても、肝心の"その場所で叶う夢"が何なのかわからないままなら、それを叶えることは出来ないはずです。
このみさんの話に戻りましょう。彼女がアイドルになることを決意したきっかけは、765プロの面接でPの言葉から彼女がイメージした"セクシーで魅力的なアイドルの姿"でした。
その時点では、一般的な"セクシーで魅力的な大人の女性"への"憧れ"だったのだと思いますが、このみさんは紆余曲折を経て徐々に"自分らしいセクシーでアダルティ姿"を探すようになりました。その姿をトップアイドルのステージという"夢が叶う場所"でファンに届ける……おそらくこれがこのみさんの"夢"なのではないでしょうか?
ところで、ミリシタ5周年曲『夢にかけるRainbow』ではアイドルたちが"夢"に虹を架ける様子が歌詞にありますが、続くミリオンライブ10周年記念曲『Crossing!』では「あの日 生まれた声の架け橋が 今日も夢をみる私の道を繋ぐ」「憧れの向こうへ」というフレーズがありました。架けた虹に乗った彼女たちが"憧れ"を超えて"夢"へ向かおうとしていることがわかります。"憧れ"と"夢"が明確に異なるものとして扱われているのです。
この観点でこのみさんの4つ目のソロ曲『it's me』を聴いてみると、「目の前の"憧れ"を超えて"夢"へ向かわざるを得なくなる葛藤の曲」と捉えることも出来るかもしれません。
このみさんの"夢"は『水中キャンディ』における「ココロの鍵」、すなわち"自分にとっての正解"を見つけることと同義ですが、その"正解"が何かはまだ誰にもわかりませんし、いつどこで見つけられるのかすらもわかりません。たとえトップアイドルのステージに立つことが出来たとしても、です。"正解"なんてどこにもないのかもしれませんが、いつかたどり着けると信じて進むしかありません。『水中キャンディ』の歌詞の主人公は……このみさんは、それを決意して陸に踏み出したのですから。
きっと長い旅になるのでしょう。もしかしたら何度も回り道をするかもしれません。ですが、たとえあなたがトップアイドルになった後も、その"夢"に届くまで共に歩き続けたいと思います。あなたのプロデューサーとして、"憧れ"の向こうへ続く虹色の"夢"への軌跡を、あなたの傍で。……なぜならプロデューサーの"夢"は、"担当アイドルが夢を叶えること"なのですから。
おわりに ...a deTo(u)r...
メインコミュでPが言っていた言葉を借りれば、"プロデューサー"とは、担当アイドルが"アイドル自身の夢"を叶えることを自らの"夢"とし、そのための指針となる存在です。決してアイドルを抱きかかえてゴールまで運んで行くわけではなく、アイドルが"自らそこへたどり着く"のを助けて支える者です。
そんなプロデューサーの目下の「夢」は"担当をトップアイドルへ導くこと"でしょう。このみさんがアイドルになることを決めた時、"トップアイドル"はまだ彼女が望んだものではなかったはずですが、初ステージの舞台袖ではPがイメージしたその景色を「私も見てみたい」と言ってくれました。
物事を自らの責任によって成し遂げようとする行為を"引き受ける"と言います。
あの舞台袖のタイミングではこのみさんがPの「夢」を引き受けてくれたかはわかりませんでしたが、メインコミュで過去を振り返った際、あの時のやり取りが"引き受け"だったことがわかります。そして改めて『水中キャンディ』のセンター公演を、あの景色の場所へ歩いて行くことを自らの意志で引き受けてくれました。その行為は、ずっと見ていたかったはずの誰かの「夢」……海辺に落ちていた"水中キャンディ"を自ら口にすることと同義です。
センター公演のことで悩む中、このみさんが「私が十代なら、後先考えずに引き受けていたと思う」と話していた場面があるように、"引き受ける"ことは重みを伴います。しかし、誰かのものだった「夢」を後悔せずに目指せるのは、それを"自分の「夢」"として引き受けた者だけです。
プロデューサーもまた、このみさんを担当すると決めたあの時に"このみさんをトップアイドルにする"という「夢」を引き受けたはずです。そしてメインコミュでの彼女の
という「夢」への願いを改めて引き受けました。
自ら道を切り拓いて進まなければたどり着けない"自分の「夢」"。思うままにいかない現実を繰り返し経験してきた大人ほど、そこへ向かって一歩を踏み出すのは難しいことだと思います。それでも「夢」を見てしまうのは、もう成長の止まってしまったはずの大人がなんとか身長を伸ばそうと牛乳を飲むように、"自分はまだ成長出来る"という"可能性"を信じているからなのでしょう。
これはアイドルに限ったことではありませんが、「あなたに言われたから夢を目指した」や「絶対に出来ると言ってくれたのに失敗したから責任を取ってくれ」と言う"自分の夢に無責任な人"に見えているのは、"自分の夢"ではなくただの"他人の夢"です。"自分の夢"を口にするのは"誰かに言われたから"といった消極的な理由ではいけないのです。それは自分の"可能性"を他人にただ丸投げしているだけで、"自分の夢"と言うためには、たとえ失敗しても、誰かの手を借りることがあったとしても、自分の"可能性"を自分で信じて引き受けなければならないのです。
もちろん、そうした"可能性"には"良い可能性"だけでなく"悪い可能性"もあります。
ミリシタの『水中キャンディ 馬場このみ』の覚醒エピソードや4コマではこのみさんがアイドルではなく事務員となっていた夢を見る話が出てきますが、それもあり得たかもしれない"可能性"の一つです。
自分の「夢」に向かって必死に進んだところで、どれくらい目的地に近づいているのかわからないこともあれば、順風満帆のまま踏み出した次の一歩で二度と進めなくなることもあります。目的地にたどり着いた時には大切なものを失っていることもありますし、求めていた"正解"が何なのかわからないままたどり着くこともあるでしょう。
しかし、そうした"悪い可能性"も自ら含めて引き受けられるからこそ、それを目指した軌跡を"自分の軌跡"と言うことが出来、だから"自分を好きになれる"のではないでしょうか。
"プロデュース"は、プロデューサーとアイドルとがお互いに相手を信頼し尊重し合っているからこそ成り立つ行為です。ミリシタでPとこのみさんの会話を見ていると、Pがこのみさんの意志を確認している場面が多いことに気づきます。プロデューサーはこのみさんの意志を尊重し、彼女が自ら仕事を引き受けてくれるのを待っているのでしょう。
もし「夢」にたどり着いた時、そこにはお互いの「夢」と"可能性"を信じて引き受け合い、お互いを信頼し尊重しながら進んできたアイドルとプロデューサーの姿がきっとあるのだと思います。
……こうして長々と考えてきてようやく気づけました。ミリシタのコミュでは何度か「プロデューサーはアイドルの最初のファン」という話が出てきますが、ファンであり、プロデューサーでもあり、そして"居心地は良いがどこか満足の出来ないこの現実"を生きる僕たちにとってのこのみさんはまるで「夢」のような存在で……そんなあなたを信じるこの気持ちもまた"水中キャンディ"だったのだと。
たった1枚のガラス板の向こう、ともすれば宇宙よりも遠い場所に存在する僕たちの「夢」。もしかしたら起きたまま夢を見ているだけで、本当はそんなものないのかもしれないし、たどり着くことなんて永遠に出来ないのかもしれない。それでも……それでも、一歩でもあなたの近くへ歩いて行く。あなたとの間に現れる、色鮮やかな"水中キャンディ"を口にしながら。