【作業部屋】25年の短い人生で学んだことを、バーっと書いてみる
※この記事は、2ヶ月前にコミュニティ内用に書いたnoteになります。
「ブログのプロフィールを整えよう」
そう思って、僕の25年という短い人生を振り返ってみよう、と。
まとめ切れないので、起こったこと、思ったことを、この場を借りて書き出します。
編集せず、整えず、バーっと書いてみます。
脚色のないプレーンな状態。
ラフ、ともいえます。
25年はさすがに長過ぎるので、ここ3〜4年の話が中心になりますが。
微妙にコンプレックスを抱えた子供時代
あまり言いたくない過去ですが、中学のときは軽いいじめを受けてました。
軽くて、周りからはいじめともわからないようなやつ。
一般的には「いじり」とでも言うのかな。
耐えられるギリギリの感じだったので、大事になることもなく、弱火の状態で続きました。
原因は、「ちょっと勉強ができた」「ちょっと運動ができなかった」という、僕の微妙なスペックでした。
小中高と野球をやっていたんですが、基本的にはベンチ(控え)。
勉強は常に学年で50位くらいという感じで、突出しているわけでもなく、
でも、野球部ではできる方だから、からかわれる、という結構おいしくないポジション。笑
飛び抜けてれば、別だったんだろうけど。
そんな感じで高校野球はベンチで3年間を終え、いじられながら幕を閉じました。
「僕のことを知らない人のところに行こう」
そう強く思った僕は、地元愛知から離れた田舎の国公立大学、富山大学に進学します。
ぶっちゃけると、富山大学は底辺国公立大学で、そこらの私立大学より下。
それでも、下宿するには国公立だったから、ギリ行けるとこに行ったという感じです。
地元から離れたいという理由だけで、大学を選びました。
僕は、多くの人が抱えるような悩みを抱えた、平凡な子供だったと思います。
「英語=好きなこと」という思い込み
大学では英語学を専攻し、教員免許取得・大学院進学を目指していました。
親に無理を言って、イギリスに1ヶ月の語学留学までしました。
「僕は、英語が好きなんだ」
今思えば、そう思い込もうとしてただけだったと素直に言えます。
でも、英語って世間体良いじゃないですか。
なんか、お洒落な感じもするし、仕事にもつながりますよね。
「英語が好き」ってことにしとけば、楽しい風の生活を送れたんです。
大学院への進学を目指して、寝てるとき以外は、英語の勉強をしてました。
飯食う時間も惜しんで。
「好きなんだから、できる。」
「好きなんだから、やらなきゃ。」
そうやって「英語が好き」を自分に擦り込んで、毎日毎日、同じ日々の繰り返し。
今思えば、何でそんな思考だったのか分からないですが、「自分は英語が好きだ」と思い込みたかったんですよね。
でも、やっぱり、所詮は好きなふり。
そんな無理は続くはずもなく、、、
ある日、糸がプツンと切れたように、全くやる気が起きなくなりました。
一日中ベットに寝転がっていました。
そんな頭が真っ白になったところに、「心気症」という心の病が入り込んできたんです。
心気症、そして通勤中に泡を吹いてぶっ倒れるまで
心気症とは、「自分は、死に至るような重い病気を患っているのではないか」と思い込んでしまう心の病です。
本人は、本当に病気だと思っているので、病院(内科・脳神経外科など)に行きます。
診察をして、検査をして、異常はないと言われても信じられません。
病院から病院へ。繰り返し繰り返し、診察・検査を受けました。
自分が死ぬときのことが、鮮明に描かれるんです。
友達といるときも、飯を食っているときも、映画を観ているときも。
病気になって、入院して、死んでいく。
その様子がありありと浮かび、頭の中で繰り返されていました。
ちょっと、想像できない状態ですよね。
それが、大学院へ進学しても続きました。
大学院へ進学すると同時に、高校の講師もやり始めました。
週4で高校勤務。大学院と2足の草鞋です。
通勤に2時間かかる場所で、しかも小田急→千代田線なので、いつも満員でした。
通勤自体もしんどかったのですが、もっとしんどかったのは、
「勉強しろ!」
と言わなければいけなかったこと。
僕は、子どもたちに、どうしても勉強を熱心にやってほしいとは思えなかったんですよね。
現代では、勉強ができなくても就ける職業なんていっぱいあるわけで。
(実際、僕の周りにはそういう人がたくさんいます。)
だから、「勉強しろ!」と言うたびに、自分に嘘をついているような気がしたんです。
子供たちは勉強したくない、僕は「勉強しろ」と言いたくない、でも、学校という仕組み上、勉強させなきゃいけない。
板挟みですよね。
全てが無茶苦茶だと思いました。
世間から言わせれば、僕のわがままなんだろうけど。「大人になれよ」と言われるんだろうけど。
でも、違和感しかなかったんですよね。
「この状況、誰が求めてんの?」って。
心の病と、それから、教師を続けるなかでの葛藤も原因となったんでしょう。
2018年11月、教師・大学院の2足の草鞋を始めてから半年経ったころ、
通勤中の電車で、意識を失いました。
教師を辞めて、フリーランスになる
救急隊の人によると、電車の中で泡を吹いてぶっ倒れていたらしいです。
検査をしても原因は分かりませんでしたが、とかく後遺症もなく、半日点滴して帰ることになります。
大袈裟かもですが、「運が悪かったら死んでたかもな。」と思いました。
そして、もしそうだとしたら、けっこう簡単に人間って死ぬんだな、と。
心気症で「死」を鮮明に描いていた僕。そのイメージと現実が、このとき繋がりました。
そして、
「どうせ人間死ぬんだし、死んだら何も残らないんだし、好きでもないことは辞めよう」
そう思って、その年度いっぱいで教師を辞めることに決めました。
別に、英語も好きなことじゃなかったな、と気付いたので、未練はありません。
このとき、もう一つ決めたのは、
「組織では働かない」
ということ。
それは、組織にいたら自分に嘘をつく場面がどうしても出てしまうと思ったから。
(すみません……。そうじゃない上手い方法もあると思いますが、このときはそう思ったということです。)
教師が子どもに「勉強しろ!」と言わなければいけないように、
一般企業でも、嫌な上司の言うことを聞いたり、特に思い入れもない商品を売らなければいけなかったり、
そういったことからは、組織に入る以上逃れられないな、と。
だから、僕にはフリーランスという選択肢しかなかったんです。
「独立」というとかっこいいけど、そんな立派なものではなくて、一般的な働き方に馴染めないから逃げただけなんです。
結果、月収10万、鶏肉ともやしで生きる貧乏フリーランスとしてスタートしました。
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ここまでお付き合いいただいて、ありがとうございます。
思った以上に長くなってしまったので、一旦ここで切ります。
ここから現在に至るまでのお話は、また別の回で……。
大切な時間を使って読んでいただいて、本当にありがとうございました。
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