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"旅情" とは何なのか?どのようにして生まれるのか?

人生を振り返ってみて。

あるいは日常の中のふと「良いな」と思う瞬間。

これまで取ってきた選択。

そうしたものの根っこには、共通した感覚(=価値観)があるよなぁ、と思い。


今、糸魚川に住んでいること。

カフェの店主をしている(メニューやデザインなどの傾向)こと。

ある特定の小説に没頭すること。

(村上春樹の "羊をめぐる冒険"、J・K・ローリングの "ハリーポッター" シリーズ、カズオイシグロの "夜想曲集"、エミリー・ブロンテの "嵐が丘"、メアリー・シェリーの "フランケンシュタイン"、米澤穂信の "氷菓"、西尾維新の"化け物" など)

鈍行電車に乗って海を眺めるのが好きなこと。

などなど。


なんでこういったことが好きなのか?

なんでこういう人生を選んできたのか?

どういう小説や映画だと没頭できるのか?

(作品選びの基準は?)

今後、どういった選択をしていくのが自分にとって幸せなのか?

ちょっと大げさかもしれないですが。

でも、自分が好きだなぁ、心地よいなぁと感じることを理解しておくこと。

それは大切なことなんじゃないかなあと思ったわけです。

どんな価値観をもとに、日々の選択をしているのか?

僕の場合は、

"旅情を感じるかどうか?"

なのではないかと、今これを書いている時点では思っています。

(あくまで "今は" ということで、今後も更新されると思いますが。)

"旅情" という言葉がしっくりきたので、そうだなぁと思うのですが、いかんせん抽象的すぎる。

そこで、僕が(あるいは僕たちが)"旅情" と言ったときに感じるものは何なのか?

それを整理しておきたいと思っています。

こういうとき、僕はとりあえず辞書で言葉の意味をまずは調べてみます。

とはいっても、Web辞書を引く程度ですが。

りょ‐じょう〔‐ジヤウ〕【旅情】 の解説
旅に出て感じるしみじみとした思い。旅の情趣。たびごころ。「—をそそる」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%97%85%E6%83%85/

旅館の大きな窓から海や山を眺めるとき。

車窓を町並みや田畑が流れていくとき。

茶屋街など歴史ある通りを歩くとき。

旅先の田舎でふと灯りの灯った居酒屋を見つけ、ふらりと入ったとき。

ちょっと物理的な旅とは離れて、旅行記や旅の小説を読むとき。

(岡田悠さんの "0メートルの旅" は、今度読んでみたいなと思っている。)

そういったときの高揚感。

とともに感じる、侘しさや落ち着き。

一見、心の動きとしては対極にあるような感覚が同時に感じられる。

確かに、"旅情" という言葉にしっくり来る感覚だなあと思います。


ちょっと理解を深めるために、適当に "旅情" という言葉で検索してみます。

その中で目に留まったのが、

『旅情とは、距離がつくる。』

〜中略〜

物理的な距離…
時間的な距離…
精神的な距離…

https://ameblo.jp/r-komanaka/entry-12048658774.html

旅先で旅情を感じるのは、ある意味あたりまえというか、言葉の意味そのままだが。

旅の小説を読んだときに、旅情を感じたり。

あるいは旅に関係ない作品でも、旅情を感じたりするのは、まさに "精神的な距離" だなぁと。


小説に没頭して、まるで本当に小説世界にいるかのように没入すると、旅情を感じたりする。

僕の経験でいうと、小学生のときJ・K・ローリングの "ハリーポッター" にひどくハマっていた。

あの分厚い、一つ間違えれば鈍器にもなるような本を小学生の自分はよくも完読したなぁ、と感心するのですが、

あれは本当に自分が、9と3/4番線ホームに降り立ち、機関車に乗って魔法学校に向かっていく様がありありと感じられたから。

文字を読んでいる感覚はなくて、目の前にその世界が広がっているように感じられたからです。

いまでも、その読書体験は非常に良いものとして記憶に残っています。


"時間的な距離" の話でいうと、これはYouTubeを検索していて見つけたのですが、非常に興味深い示唆だなぁと思います。

イギリスから日本の1、2時間(プラスになった)旅情と、上野から水戸の1、2時間プラスとでは、旅情のプラスのされ方が違うなぁっていうね。

https://youtu.be/B99jY28vt2g?si=SQTvaFgVpkw_y3VF

つまり、「時間的に離れている」というだけで旅情が深まったり強まったりするわけではない、ということです。

動画では、「じゃあ隣町まで2時間かけていけば旅情を感じるのか?ただ不愉快なだけじゃないですか」という話も。


ちょっと話を戻すと、"旅情" という感覚は何も旅をしている時だけに感じるものではないと思っていて。

たとえば、小説を読むときだったり。

何か(遠く離れた親戚からのお裾分けとか)を食べるときだったり。

あるいは、近所を散歩しているときだったりにも感じることはあるかもしれない。

その身体感覚が、とりわけ旅をしているときに感じやすいので、"旅情" という言葉が付いているだけだと思うんですね。


たぶんですが、旅をした昔の人が、

「はぁ、なんとあはれな気持ちか。これが旅で感じる情。旅情じゃないか」

と言い出したりなんかしたりして、旅で感じる情趣という定義になったんだと思います。

知らんけど。


ともかく人の心というのは抽象的なものなので、「旅のときだけに感じる気持ち」というのは基本的にないわけです。

そもそも "旅" というのも、人が勝手に作った概念なので。

何をもって旅とするかも人それぞれで、旅自体定義できないものですよね。

つまり、"旅情" を感じる条件が、旅をするときにとくに揃いやすいというだけのことだと理解しています。


旅情が旅をするときだけに感じるものではないとすると、何が旅情を旅情たらしめているんだろう?と疑問になってきます。

条件と言い換えても良いと思います。

それがさっき引用した、

  • 物理的な距離

  • 時間的な距離

  • 精神的な距離

なんじゃないかなぁ、と。

ただこれは必要条件ではなく、十分条件かなあというふうに個人的には思っていて。

つまり、上の3つのどれかが欠けても旅情を感じることはあるし、逆にどれかを満たせば旅情は感じられるということです。

「じゃあ、極端な話ビジネスホテルでもいいんだ?」
「ビジネスホテルでもいいです、全然。ただ旅情をそそらないので、選ばないだけ」
「じゃあ、水野さんは安い旅館みたいなところに泊まる?」
「そうです、そうです」

https://youtu.be/Drl5HMryYLM?si=2anEOGlaEQWNBAkp

ただ、別の動画でこんな話があるように、時間をかけて、物理的に離れた場所であっても旅情をそそらないパターンがある、と。

これは体験的にもわかって、旅行に行ってももちろん旅情を感じられないことがある。

部活動の遠征などで合宿所みたいなところに泊まる場合は、言わずもがな。

家族旅行でも僕の場合は感じにくいなぁ、と思うことが多いです。


それは思うに、たぶん "精神的な距離" という条件が満たせないからかなと思います。

たとえば、さっきの部活の遠征の例。

ふだん見知ったチームメイトがおり、場合によっては顧問の先生がいる……。

否が応でも学校生活(=日常)を思い出さずにはいられない環境だったりします。

家族旅行の例もそれに近いとは思いますが、より程度は薄れる感覚です。

恋人との旅行だと、より薄れそうです。


ここから考えられるのは、どれだけ日常生活から離れて、その世界に没入できるかだと思っています。

例えば、旅館に泊まって広縁(=旅館のあのスペース)に腰掛け、お茶を啜りながら眼前に聳える山々を眺めるとき。

恋人や仲の良い友人2人となら、

「良い景色だねえ」

「そうだねえ」

となりそうです。

それが家族4人だとどうなるか。

「良い景色だねえ」

「そうだねえ」

「そういえば、お風呂いつ入る?」

「ママー、お腹すいたー!」

と、生活感(=非常に日常的)のある話に引き込まれやすいと言えます。

部活の仲間や先生と合宿なら、なおさら……。


事象としては、「人数」ということになりそうですが、もう一段階考えを深めたいです。


たとえば、1人で旅館に泊まり、広縁で外の景色を眺めている。

するも、傍に置いたスマホが、

「LINE!」

と鳴って、家族から「一人旅楽しんでる?」とメッセージが来たとします。


台無しです。


それを送ってきた母親の顔と、今の時間なら夕飯の支度をしている頃だろうという情景がありありと浮かびます。

そのほか、ゲーム機や漫画、セールス色丸出しのチラシ、学校で使っている筆箱、etc。。。

そういったものでも、一緒だと思います。


整理すると、精神的な距離とはつまり具体的には、"日常からの距離" と言えます。

もっというと俗的なものからの距離。


ちょっと脱線しますが、僕がテレビを全く見ないようになり捨てたのも、これだなと思います。

つまり、俗的な情報を遮断し、より日常的なものから距離を取っているということです。

あとは、糸魚川という田舎にすんでいることも、東京からの距離を取るため。

細かいことをいえば、満員電車や人混みのショッピングモールなどからの距離。

もちろん、糸魚川に長く住んでいるとこっちが日常になってくるので、逆に旅情を感じにくくなってくるとも思いますが。

(なので、どっちが良い悪いではないと思っています。)


日常的なものからの距離を取るには、外界からの情報を遮断することが手っ取り早い。

その手段の1つが、人はより少なくする。

スマホなどのデジタルデバイスを身につけない。

ものはなるべく持たない。

その辺りになってくると思いますが、他にもいろいろと考えられることはありそうです。


あらためて "旅情" を感じるときの条件を整理してみます。

先ほどの条件を再掲しますと、

  • 物理的な距離

  • 時間的な距離

  • 精神的な距離(日常からの距離)

だったのですが、どうやらこの条件には階層がありそうです。

途中、物理的な距離と時間的な距離があっても、旅情を感じられないことがあるという話をしました。

つまり、"精神的な距離" はマスト条件なのではないかということです。


じゃあ、"精神的な距離" さえあれば旅情を感じられるのかというとそうではなさそう。

たとえば、ディズニーやユニバなどのテーマパークは、日常からの距離はかなり離れていると思いますが、旅情とは違います。


なんとなくですが、僕たちはその土地に結びついているものに旅情を感じている気がします。


これはかなり体感的なものになりますが、ディズニーランドが千葉にある意味や、ユニバーサルスタジオジャパンが大阪にある意味は、さほどないと思います。

そもそも、ディズニーランドは "東京ディズニーランド" ですしね。


旅で旅情を感じるときというのは、旅館などその土地に結び付きのある遠くの場所に時間をかけて行き、その世界に没入したときじゃないでしょうか。


読書で旅情を感じるときというのも、それに似た現象かなと思います。

これも個人的な体幹の話になりますが、5分10分読書をしたくらいでは旅情を感じることはなく、

少なくとも30分以上は読み進めていくと、本を読んでいるという感覚がなくなってきて、その世界で過ごしているうちに勝手にページが捲られているという状態になってきます。

このとき、すでに小説世界に没入して日常から距離が離れ、時間的な距離が離れている状態。

つまり、擬似的な旅の状態ができています。

物理的な距離は離れていないですが、「日常からの距離」「時間的な距離」の条件を満たしている状態です。


でも、これも全ての本で起こるわけではなく、一定の本でしか起こらない(僕の場合は)。


その共通点が何かなと思ったときに、"その土地との結びつき" だなと思ったわけですね。

それがホグワーツ魔法学校のような架空の土地であっても、それが土地として認識できれば問題ないです。

逆に、千葉のディズニーランドのように、とくにその土地との結びつきがなければ、現実の土地に立っていても旅情とは無縁です。

さらにいうと、ディズニーランド内の架空の世界を再現したゾーンでは、人によっては旅情を感じるかもしれないです。

(その際、どれくらいその世界に没入できるかというのがポイントになりそうです。)


これを踏まえて、あらためて "旅情を感じるとき" の定義を整理してみます。

【旅情】
"日常からの距離" を満たした上で、"物理的な距離" もしくは "時間的な距離" のどちらかを満たし、その土地との結びつきを感じられるものに触れたとき。

これを踏まえると、僕が人生で取ってきた選択にもおおよそ説明が付けられて、かつ好きな作品の傾向などにも当てはまります。

東京の満員電車を避けて、田舎に引っ越してきたこと。

教員を辞めて個人事業主をしていること。

カフェ店主として地元食材を使い、見た目から楽しめるようなメニューを提供していること。

ローカル線に乗って、海を眺めるのが好きなこと。

1人の時間を大切にしていること。

子供の頃、ハリーポッターにどハマりして、寝るのも忘れて読んでいたこと。


説明ができるからなんやねん。

という話もありますが、冒頭でも触れたように自分の価値観を再認識することは、僕にとってすごく重要です。

なぜなら、選択に迷ったときに、1つの指針になるから。

小さい話でいうと、本を選ぶとき。

大きい話でいうと、仕事を選ぶとき。

などなど。


今回の話は、主に自分の思考の整理のために、取り留めもないことを書き綴りました。

続けるかわからないですが、また気が向いたら書いてみようと思います。

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