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往く日々と夜(3)(R18)

第三章 社交恐怖症

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

「なあ頼むぞ、城戸君。鬼島先生とちゃんと相談して」
勝手なことを言うのが得意な社長は、面倒くさい仕事をバキバキと二発のパンチと一緒に城戸の肩に押しつけた。
城戸は、二口だけ食べてすっかり食欲を失ってしまった弁当を見て、歯を食いしばった。鬼島先生にちゃんと相談するなんか、うまいことをいって、木島がこういうことが大嫌いなのを知りながら、あえてそう命令した。やっぱり、商売人に善人はいないのだ。
『熾紅の印』は、新人作家としてはもちろん、業界でも羨望の的になるほど爆売れた。ネットの掲示板には、鬼島蓮二郎に関するスレッドが500件以上も掲載されている。通常の官能小説とは違って、この作品は描写も展開も真新しい。暗流がうごめいている感情もあれば、前後に呼応する組み立てもいい。何より、エロチックな部分のくだりや描写が、常套的ではなく、十分に刺激的であると読者が高く評価している。
城戸が原稿を読んでいて気に入ったところは意外もなくネット上でも話題になり、サイン会や会見を求める声がどんどん上がった。しかし木島は出版社と契約を交わした当初から、人前に出るつもりはないと説明していたので、社長は説得という厄介な任務を城戸に勝手にぶつけた。
「サイン会をやらなくても、せめては業界のパーティーに出席してもらおうよ。みんな出版関係者だから、変な人も出ないし、みんな守秘義務もあるし、鬼島先生に会えるのを楽しみにしているよ。大丈夫でしょう城戸、鬼島先生との付き合いが上手そうだね」
それは見た目だけだ、とさすがに城戸は憤った。これまで木島は城戸の言われた通りに行動していたのは、それらの依頼は仕事にとどまり、限界に触れることは少なかったからだけだ。「もしかしたら、もう案内状をお出しになったのでしょうか」
「ええ、出したよ。顔見知りの出版社とか、スポンサーとか、業界の有名人とか、みんな出したよ」社長は当然のような顔をしている。「だーかーらー、鬼島先生のほう、頼むぞ」
「社長……鬼島先生は、社交恐怖症なんですけど……そういう場合は、もう何度も断られていますが……」
「だーかーらー、頼む。友達でしょう。バイキングのつもりできてと言っといて、その時になると、挨拶して、うちがフォローしてあげるから、大丈夫よ!」
社長は強気に城戸の肩を叩き、それ以上、城戸に断る隙を与えなかった。
城戸が肩を落として帰ってきたとき、木島は板や部品に囲まれて茫然としていた。帰宅してきた城戸にどうしたかと聞かれるのを待っているような顔をした。城戸が用意していた相談は、しばらく後回しにされた。
「これは、何?」
城戸はしゃがんで、重そうな板をつまんで持ってみた。結構重い。
「本が入らなくてネットで本棚を買ったが、届いたのは板だらけ…」
木島は薄っぺらな説明書を手にして、ひどく困っているように見えた。それを理解していないかと城戸が感じた。
「配達の人に組み立ててもらってなかったか。料金を払えばいいのに…」
城戸は木島の手から説明書をごく自然に受け取った。
「そうだったのか…」
木島が驚いたように顔を上げると、そのピンときたような目つきに、城戸は一気に笑った。
「やるから、少し休んでください」
城戸は床に座り込んで、本棚の組み立て方を調べた。彼はそんなことが得意で、また興味もある。木島はいつものように退屈な力仕事からすぐに遠ざけたわけでもなく、その横に膝を抱えてうずくまり、城戸の作業を興味深そうに眺めていた。
城戸が二つの板の位置を調整して、ネジを入れる時、隣にいる観客はゆっくりと口を開ける。
「なあ…確かに、寂しげな主婦が、配達の男に有料で設置してくれと声をかけて、設置中に誘惑するのもいいパターンよね。また、主婦が設置途中の棚に置かれて、動きがあまりにも激しくて棚が台無しになるとか……」
城戸は固まった。木島の話を聞いて、城戸はカタカタという棚の揺れる音まで聞こえるようだ。が、振り返って木島の無邪気な顔や、自分の手元にある組みだてかけの棚を見て、何も相槌を打てない。
「家の中なのに、知らない人が合法的に侵入してくる。丁寧な挨拶をしながら、お茶や道具を渡したりするとき、わざと余計な体の接触をする。たとえば、こう……」
木島は真剣に手本を示すように手を伸ばし、手のひらの側面で城戸の手の甲を軽く擦った。肌が接した瞬間、城戸は赤い燃えさしを帯びたタバコの灰がそこに押しつぶされたように、痛みを感じる。
城戸は困った。自分が木島に誘惑されていることははっきりとわかっていたが、それに応えるかどうか確信がなかった。向こうは気分屋の小説家で、いつでも「フィクションです」で自分が作り出した混乱を取り消すことができる。それは馬鹿馬鹿しいことだが、木島理生が作ったからこそ、人物が生き生きして、物語も美しい。
「うん…確かにいいネタだが…」
結局城戸は、木島の探るような視線を避け、何げないふりをして設置作業を続け、なんということなしに話題の方向性を変える。
「そういえば、水谷社長はよろしく伝えてくださいと言いました。新しい本がよく売れているから、すごく喜んでいるようです」とさりげなく話をそらした。
「意外と単純ね……水谷社長は」
気のせいか、木島の表情も口調も、寂しそうに城戸に聞こえた。情けないねと文句を言っているようだ。
いつまでもそうとはいかないでしょう、パッと官能に支配された領域に入っていくなんて……ゆっくり話をするチャンスはないものかと思った城戸は無理をして話を続けようとした。
「それで、社長は打ち上げをしようと思って…出版畑の、お前が知っている人たちばかりですから……」
城戸は早口に言った。まるで、檻を抜けてから追いつかれるのを恐れる兎のようだ。が、木島の断りは、鷹よりも速くて精確だ。
「行かない」
木島はソファにもたれかかり、霜でもかぶったかのように、口調まで冷ややかだ。
「そんなこと、聞かせないでって言っただろう」
「わかるよ…当然わかってるけど…」
城戸は無力に頭を垂れた。仕事上、何度も断られ、軽蔑されたことがあって、それはもちろんつらいが、木島を相手にすると、一層つらく感じる。何よりもつらいのは、木島の気持ちがよく理解して、そして木島にそう頼むのが気まずいと分かったのに、それでも、そう説得しなければならない。
部屋中に不気味な沈黙が流れ、しばらくは板がぶつかり、ネジがねじ込まれる無味乾燥な音だけがした。木島は顔をしかめてタバコを吸い、城戸は頭をうずめて作業をしていたが、誰も沈黙を破るために何かを話すかわからない。やがて、頭を下げるのに慣れた方が口を開いた。
「どこに置いたほうがいいか」
城戸は組み立てられた本棚を指した。木島はなかなかの選び上手だと言わざるを得ない。組み立て型の家具は決して高価なものではないが、木島が選んだ棚は形も色も、部屋のトーンと調和がとれた。
「……」
木島は相変わらず拗ねたように口をつぐみ、城戸を見ようともせず、適当に後ろの書斎を指差した。
城戸も気にすることができず、一人で本棚を書斎に運んで、机の横にしっかりと置き、床に散乱している文房具や本をまとめて並べていった。
木島の柔らかい声は城戸の後ろから伝わってきて、悔しさと焦りがあふれんとする。
「城戸…あんなことは…本当に…」
「はいはい、わかるよ。大丈夫大丈夫。社長に話しておくから。無理しなくていいよ」
城戸は振り返って笑った。
木島のひそめていた眉は開いたが、二人の間のぎくしゃくした空気はそれだけで消えていない。城戸が夕食の調理に台所に行っている間、木島は机に向かってぼんやりしていた。城戸の勝手なことに腹を立てたのか、それとも自分の性格のせいで鬱陶しいのかはわからない。作家が出版社の依頼に応じてサイン会に出たり、お祝い会に参加したりするのは、契約書には書かれていないが、仕事の範囲内のようなものだ。人脈と発信力が必要な業界で、木島はわがままにイベントを一切断って、それに何の影響も受けかった。それはなぜだろうか。
すべては才能があるからだと木島は自慢してそう思いこんでいた。これまで城戸がどれだけ木島のために担ってきたのか、木島は知らなかったし、関心もなかった。
ひどいのは、自分かもしれない……木島は突然、得体の知れないうしろめたさに襲われた。ただ、そのうしろめたさから、面倒な打ち上げに応じるとすれば、心の準備が実にできていない。いつのまにか、人込みの中で注目されることが、彼にとっては至難の業になった。
「大丈夫だから、そんなこと考えないで、早くご飯を食べよう…」
城戸はラーメンを二つ持ってきた。ラーメンのおかげで、リビングも暖かくなった。城戸は木島の丼を持ってバクバク食べる様子を見て、心にある不愉快は、春の雪みたいに、この暖かくて家庭的な雰囲気に溶けてしまった。
 
主役が欠席する予定だが、水谷社長の打ち上げ会は決行した。その賑やかさを見ているうちに、城戸はふと木島の身勝手にも見える社交恐怖症を理解するようになった。世の中にはルールというものがいろいろある。うんざりさせる面もあり、夢中になる面もある。考えてみれば、社長はだらしなく見えても、誰かを困らせるためにこのような会を行うわけではないのだろう。二世としてはいろいろとやむを得ない事情があったに決まっている。城戸が覚悟して木島の決意を社長に伝えたとき、その人は怒鳴ったり文句を言ったりもしなかった。ただ城戸の肩を叩き、感慨深そうに嘆いた。
「ただの打ち上げでどうでもいいけど、鬼島先生がそうなると、やっぱり心配だね…」
城戸はふと、蒲生田先生が危篤になったときに自分に言われたことを思い出した。やはり、人生経験の豊富な人から見れば、木島のこういう状態は、本当に危ないものか。城戸は漠然と不安に思っていたが、どうしようもない。業界の偉い人たちは、期待していた鬼島蓮二郎に会えず、この人気作家と飲むはずだった酒を、話しやすい担当編集者と一緒に飲んだ。木島の将来のためになるのではないかと思い、城戸は豪快に飲んだ。偉い人を全部タクシーまで見送ると、城戸はもう頭がぐるぐる回って、立つこともむずかしくなってきた。
重い体を引きずって、居酒屋の入り口の高い階段を一歩一歩降り、道端に疲れたように腰を下ろし、タバコに火を点けた瞬間、彼は自分が何もできない中年男になったような気がした。木島が言っていたように、自分は他人に順従にしすぎて、信念も持たず、ひからびて退屈な人生を送っている…今度は加えて、ミッドライフ・クライシスまでもある…
あおい煙が上がる瞬間、城戸は自分が落ちぶれた幽霊のようだと感じる。突然、月を見たくて、拠り所を探そうとする。重い頭を上げ、ぼやけたように見上げると、ようやくピントが合った瞳には、白い残月ではなく、木島の穏やかな顔が映った。
さすがにかなり酔っていたなあ、と城戸が思った。こんな幻影を見るなんて恐い、心の奥底に秘められていた、簡単に触れてはいけない欲望が、アルコールで意識が弱っている隙に、これほど具現するなんて。
目を覚ますように、城戸は首を振ったが、頭がいきなり幻影の手に取られ、ぼんやり見上げたまま動けなくなった。
「何してる?ボケてる」
ああ、幻影はまだものを言うのか、と城戸は呆れた。城戸の視界は木島で満たされた。木島は彼のすぐ近くにいて、無表情で、どこか哀愁漂う目つきをしている。
「城戸…」
幻影が再び口を開いた時、城戸はこれが幻影などではなく、彼の前にいるのが本物の木島であることを悟った。
城戸は抑えきれない羞恥心と怒りで、激しい頭痛を感じた。木島の前では威張らなくても、さっきの退廃的な姿を絶対にあの人に見せたくなかった。
「きじま…せんせい…どうして…」
酔いが半ば覚めた城戸は、すぐに立ち上がり、慌ててあたりを見回し、誰も見ていないことを確認してから木島を見て、自分でも知らないうちに大きなしわの寄った裾を払っていた。
「君を迎えに来たんだ。少し飲みすぎのようだね」
木島が手を伸ばして、袖口についたタバコの灰を払ってやった。木島は月を背にして立っていて、月光に照らされた顔の輪郭がはっきりしている。
城戸は、木島が外出するのが嫌だと知っているから、少し驚いた。
「ああ……なんで僕がここにいるのを知ったか」
木島は口をへの字に曲げ、携帯を出した。
「社長のSNSに位置情報がついてるよ。それから…生中継をしていた…」
「はぁ?何をしたって?」
城戸は口を開けたまま、慌てて携帯を取り出した。ロックを解除して写真をみたら、社長へのツッコミが止まらない。こんな写真を公開してもいいか。自らの会社のイベントのお酒が安いって言うか。クラブみたいな雰囲気って一体何なんだ?ただ、諸々の感想はある写真をみる瞬間、ぱっと止まった。
城戸は携帯を素早く懐にしまい、どうやって話を逸らそうかときまり悪そうにあたりを見回していると、木島は何も言わず、踵を返して道端に歩き出した。急ぎ足でついていくが、アルコールの威力がそう簡単に消えないことを忘れてよろめき、バランスを崩しそうになったところを、木島に急に支えられた。
「大丈夫…気をつけなかった、だけだ……」
城戸は宥めるように木島の腕を叩いたが、意外に木島が固執しているのを感じたから、支えられるままに一歩ずつ前に進んだ。
城戸は木島より少し背が高かったので、支えられると、二人とも苦労した。また、歩けないほど酔っていたわけではなかったが、次第にお互いに寄りかかり、引きずるような状態になっていったが、誰も離れようとはしなかった。
「誰、あの人?」
木島の声は相変らず穏やかな小川のように、城戸の心をさらさらと流れていった。その言葉の意味はもちろんわかっている。例の頼りのない社長の公開した写真が目に入った時点で、大変だとわかった。残念なことに、しばらく歩いても、彼は適当な言い訳を見つからない。
「城戸…」
声がすこし高くなった。そこに、注意と警戒と怒りを込められた。城戸はため息をついて立ち止まり、木島とすこし距離を取ってから、やはりきちんと、正直に話すことにした。
「鈴木先生だ…もともと私が担当していた作家で、美希さんが担当になった。ちょっと酒癖が悪くて、酔うとキス魔に変身…僕も…しばらくは避けられなかった」
城戸は胸を張って答えるつもりだったが、声がどんどん小さくなった。
「あっそう…楽しそうだな……」
木島は立ち止まり、携帯を出して、例の楽しそうな写真を城戸の目の前まで突き出した。
いつからSNSをこんなに上手く使っているか、こいつ…城戸は密かに文句を言いながら、笑顔を見せた。
「俺も飲みすぎだし、鈴木先生にも久しぶりだし…気にしないで、顔にキスしただけですよ」
「そうね、別に、僕は構わないけど……」
木島は明らかに怒っていたが、わざと平気な顔をして、城戸を待たずに歩きだした。
焦っていた城戸は、考える余裕もなく、無意識のうちに木島を引っ張った。
避けていた目つきが、急にぶつかり合った。二人は互いに瞳の奥まで見つめて、二人の心がともに揺れる。空にあるすべての星が落ちて、月もこの渦に沈んで、砕け、きらめく光になった。
空が暗くなった瞬間、木島の柔らかい唇が飛んできて、羽ばたく蝶々のように城戸の唇の上でかすかに震えた。蝶々はそれらのつまらない嫉妬やためらいとともに、もがいてすぐ喰われてしまった。唇と舌との激しいもつれの中では、妄想の他には何も生きてはいけない。
彼らは深夜の誰もいない街で、痛快に口づけを交わしていた。まるで限りなく暗い密林に迷い込んで、吐息だけが唯一の生の道につながっているかのようだ。耳元に液体の吸う音と放浪の喘ぎ声が溢れて、それがその時気付かれる唯一の言葉だ。
酔っぱらった人の口は、もちろんいい味がしないが、木島は異常に夢中になる。城戸の唇の間で舌先をさまよわせながら、その残酒を味わっていた。たしかに彼は腹を立てたが、それは酔っぱらった城戸の滑稽なキスの写真のせいではなく、城戸が自分のいないところでより楽しく生きられるためでもなく、ただ、彼自身が可哀想な社交恐怖症の患者で人が集まることの良さを感じられなかったからだ。
あの激しいキスの終わりに、城戸は木島をしっかり抱きしめて、重い頭を木島の肩の上に埋めた。彼は告白する勇気がないが、心の中にかすかな喜びが確実にある。木島がそこにいることに、そして木島があの写真に怒ることに嬉しかったんだ。
「ありがとう…」
木島は小さな声で言い、その吐息が城戸の耳をかすれた。
「いえ…無理しないでいいよ」
城戸の声が、木島の肩にこもったため、歯切れが悪い。
この世の中で、誰でも多少の病気がある。幸いに、いつもそばにいて、理由も立場もなく、契約も調印せず、癒してくれる人がいる。相手を癒して、それと同時に自己を救済する。頼りがあるからこそ、心ゆくまで怖い気持ちを吐露することができる。
雲の中から曲がった月が出てきて、一晩中最も明るい光で病状の重い二人を照らしていた。
 

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