DRIVING IN THE RAIN

 

 マニキュアをしたのに、いつもの癖で爪を噛んでしまう。午前零時。雨の音が聞こえる。受話器の底から、彼のため息が届く。

 「もう、続けられないんだよ」

 「いらないわ」

 合鍵を欲しがったのは、彼だった。

 「君が嫌いになったわけじゃないんだ」

 「捨ててしまえばいい」

 なげやりな口調を意識して、私は言う。何か言おうとする、彼。私は受話器を戻す。

 彼が封を切ったバランタインがある。グラスに半分ほど注いだ。アルコールが鼻をつく。水道の水で割る。苦い薬を服むようにして、ひといきに飲み干した。

 この液体が眠りの中に覚えたのだろう。ただ、酔いに身を任せて眠りたかった。眠ってしまいたかった。雨の音は、次第に強くなってゆく。

 ドアがノックされた。彼だということは、わかっていた。私はベッドに顔をふせたまま、ノックの音を数えていた。五度目を数えたあと、ドアの郵便受けに金属の落ちる硬い音を聞いた。

 私は闇の中に、去ってゆく彼の背中を見ていた。あの音で、全ては終わってしまった。もう続けられないし、始められもしない。

 酔いがやさしく身体を縛っていた。もう一杯あければ、眠りの底に沈み込んでしまえるはずだ。けれど、私はグラスではなく、車のキーを取り上げていた。

 雨は土砂降りになっている。私は駐車場まで、傘のささずに歩いた。ずぶ濡れの身体を、ドライバーズシートに預ける。しばらくの間、ステアリングにもたれて、心臓の鼓動を聞いていた。イグニッションキーをまわす。エンジンは、すぐにかかった。

 フロントガラスに打ちつけてくる雨を、ワイパーがせわしなく払う。ヘッドライトが闇と雨の帳を裂く。パールの爪が街灯の光を弾いた。無人の街。対向車のヘッドライトだけが生きている。眠りについた人々の夢を弾き殺すに、アクセルを踏み続ける。

 どこへも、行くあてなどはなかった。ただ、運転をしている間は余計なことを考えなくてすむ。

 次第に身体が車と一体化してゆく。このままずっと、雨の音だけを聴いて走り続けていたかった。やがて雨があがり、朝がきて「今日」という一日が新しく生まれる。心は「昨日」までと同じように、仕事に就く。朝の挨拶をして、お客様と話をする。伝票を切って、文書を作る。何ひとつ変わることはない。

 流行歌。恋をなくして、住んでいた街を捨てて夜汽車に乗る女の歌を思い出そうとした。けれど、私はこの街を捨てることはできないだろう。彼だけのために、この街に暮らしているわけではないことを、私が一番よく知っていた。そして全てを新しく始められるほど、幼くはないことも。

 いまひと時は、無理して読まなくてはならない本のページを繰るようにして、暮らしてゆく。明日も明後日も、同じ風景を生きてゆく。彼がいない。涙があふれて、視界がゆらいだ。しっかりと唇を結んで、前方を凝視する瞳から悲しみの粒がこぼれ落ちる。私は拭おうともせずに、ステアリングを握っていた。頬が暖かい。

 国道を南へ、闇の中に、全ての音が吸い込まれていく。

 峠へと続く山道に入っていた。後ろの車がパッシングを繰り返した。追い越す気だ。ゆるい勾配の直線がのびている。私の中で、勝気な少女が目覚めた。

 ギアをサードにおとして、アクセルを踏み込んだ。タイヤがしっかりと、路面をとらえているのがわかった。前方に、ゆるやかな右カーブが迫る。中央車線を眼でたどりながら、ステアリングを切る。ヘッドライトが一瞬、消えた。

 勾配がきつくなる。後ろからのハイビームが私の視界を白くした。

 左カーブ。急すぎる。右足の力を抜いたとたん、クラクション。思わずブレーキを踏んでいた。後輪が浮きあがったような気がした。ステアリングを押さえつけるようにして、握っていた。静寂が砕けた。自分の心臓の音だと気付くのに、数秒かかった。心は空白だった。

 後ろの車は対向車線に飛び込んで、強引に抜き去った。白のスカイライン。テールランプの赤が、またたく間に遠くなって、次のカーブに消えた。

 私は道路脇に車を寄せて、停めた。雨はあがっていた。

 外に出て深呼吸をした。風が頬をなでる。早春のにおいがしていた。

 ガードレールから身を乗り出すようにして、街の灯を見おろした。死ねない歳になった人々の灯が、泣き腫らした眼にやさしかった。

                              1985・8



 





 

 


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